第4回 焼跡の避難地利用 元東京消防庁 機械部長 市川肇

□幼な心にも残る震災の恐怖
関東大震災といえば、半世紀前のことになる。その上小学六年当時であるから、特別に印象づけられたことでもなければ容易に思い出せそうもない。そこで回想の糸口を求めて、震災当時住んでいた外神田六丁目(元の五軒町、末広町)に久万ぶりで行ってみることにした。
須田町から上野に向って、江戸時代将軍が上野東照宮参拝のとき、通ったという通称御成街道の秋葉原電気商店街を通り過ぎ、路地を左に折れると、そこが当時住んでいた五軒町一番地である。昔を偲ぶ家こそないが、家屋の櫛比した狭い路地に下町の風情は何か残っている。私の家の跡は小料理星になっており、昼間のこととて尋ねることもできなかったが、ただ一つ当時下町っ子の好む朝湯で人気のあった「白湯」が姿こそ変れ、場所もそのままで、今なお営業を続けていたのはうれしかった。その浴場の横に当時金原という家があり、同郷ということで親戚以上の交際をしていたがその金原家には東大生と女子大生の兄と妹がおり、私は相当面倒をみてもらっていたのである。
その後何十年か過ぎて、私が消防総監の秘書係長をしているとき、東京都の総務局長から二代目消防総監として赴任してこられたのが、その時の東大生金原進総監である。約一年総監とその秘書係長として過すことになったのであるから、まことに奇しき因縁であった。そんなことを、その狭い路地の中で考えているうちに過去と現在がオーバーラップしてきて、どうやら当時のことが思い出きれてきた。

□夏休みも終り第2学期の1日日
大正十二年九月一日に溯る。当日は長い夏休みも終り、第二学期の第一日日で、学校も早く終り帰宅していた。やがて東京を猛煙猛火の坩堝の中に追いこんだ大震災が起ろうとは知る由もなく兄弟三人は二階で昼食遅しと待ちつづけていた。時計の針が午前十時五十八分四十四秒さした瞬間、全く突然グラグラときた。上下動か、左右動か全然わからない。ただただ恐怖、三人は抱き合って、襲えていたことと思う。その中にあって、いまだに記憶に新しいことは、天井や木組のきしる音や柵から落ちる音の中で、敷居と畳の間が段々離れてゆき、今にも家が割れてしまいそうになってゆく状況と、窓越しに見える隣家の、うずたかく積まれた商品のボール箱が崩れ落ちてゆく様子が一層その恐怖をかき立てていたことである。
その時間も十四秒位だそうだが、その長かったこと。やがて階下から母の絶叫のような叫ぶ声が聞こえてきたとき、やっと人心地がついた。転ぶように階段をかけ降り一気に外に飛び出そうとしたとき、再び余震に襲われたのである。それからの行動は詳らかではないが、とにかく母と兄弟≡人、店員二人は五十米程路地をはしって、御成街道の電車通りにでていた。電車線路に跨っていれば、大丈夫だということで取りあえず全員道路中央の市電線路上に落ちつくことになった。さて落ちつくと外出中の父と店の人の安否が気づかわれてきたが、どうしようもない。やがて南の須田町方面と東の蔵前方面に黒煙があがり、距離は遠いが、いつの間にか上野の方向を除く一帯に広がった幾条かの黒煙が合して、黒煙天を沖し、その黒煙の中から、真赤な太陽が、濃く淡く流れるように、無気味な姿を見せていたのは、子供心に、地球最後の日の中に立たされているような気がしたことだろう。当時の文献にも「電話および火災報知機は断絶して通信連絡の用を失い、水道は断水して防火行動の蹉昳を来したるに、折柄の強風は火勢を煽りて忽ち四方に延焼し、其底止する所を知らず」と記されている。幾時間かたづた。父や店の人が逐次帰ってきて、全員十九人が一人も欠けずに集まった。ところがいつの間にか一人だけいなくなった店員がいた。十六か十七才で普段生意気で皆んなから嫌われていた。やがてその本人が釜に一ぱいの飯を炊き、のりの佃煮を交ぜ合わせて持ってきたのである。一人で店に戻り、隣家に延焼してくるまで止まって、わずかに残っていたのであろうガス、水道を使い炊いてきたのだそうである。そこで一躍英雄になり、地震に乱れて、忠臣現われたのである。

□ふだんから家族の集合場所を決めておく事もー手
こうしたことで腹ごしらえもでき、とにかく一家十九人が、その日のうちに集合できた。これは火災の本場と言われた神田の真ん中に住んでいたため、父は常に何かあったときの集合場所、連絡方法等を定めてあった為で、平素の心掛が役立ったことと思う。
東消の広報課長時代、九月一日の「防災の日」が近づき、今年の目標を何にしようかと考えを巡らしているとき、ふと、このことが思い出された。地震等のとき避難場所、連絡方法等を普段話し合っておけば、必ず迷うようなことはない。これだと思い「防災家族(職場)会議」を打ち出したのである。我が家の火災予防、火災発生時の処置、非常時の心得、特に避難場所等を議題として家族が集り、できれは中学生位の子供が議長となって会議を進める。興味ももて、親子断絶の一因とも考えられている共通の話の場も、もてることになる等々、色々肉付けをして指導要領を作り都民に呼びかけたのである。

□焼跡に一家揃って避難
やがて夕方近くなると、西南方神田明神附近に廻った火勢が方向をかえ、御成街道に向って猛進撃をしてきた。そのとき、住み馴れた吾が家も消え去ってしまった。然しそんな感傷にはかりひたっていられない。とにかく避難しなければならない。
三、四時間前からこの御成衝道は、放心した人々が切れることもなく、避難の道を上野へ、上野へと求めて流れてゆく。上野公園に避難した人は五十万といわれている。この流れの中に入って早く上野公園に逃げたいと思っていた。しかし父はいよいよ避難することになると流れとは逆の方向に歩み出し、貨物線が敷設されている秋葉原の近所だと思ったが、すでに焼け落ちた後に逃げた。見渡す限り焦土と化した中に土蔵やビル、焼けた立木が無気味に立って、一面に燻っていた。息苦しく小さい妹が、ちょっと気分を悪くしたが、壊れた水道管から流れでていたわずかな水が一同を救ってくれた。しかし、当時の状態としては上野公園に行かずに、焼けた跡に避難したことは、最良の手段だと思っている。火に追われる恐怖感もなく、一家が揃って楽に避難できた。

大地震が不幸火災発生ということになると、消防力に対する依存度は極めて大なるものがある。それどころか、他の機関の協力を得なければならないが、消防機関が中心になって、全力投球をしなければならない時である。しかし、併せて大切な問題は、いかにして、この大震火災から住民の生命を守るかということで、大都会においての避難問題は相当難しい問題である。
東京において現在指定されている四十六ヶ所の避難場所では、一番遠い人で十二キロを歩かなければならない。そこで最良の手段ではないが、巳むを得ないときは、焼け跡に避難させるということもーつの手段として考えておくことが痛感される。
これは都民に前もって、指導しておくことではなく、少なくとも消防、警察の幹部だけでも検討をして、その手段方法を計画しておく方がよいと思う。焼け跡に避難することができれば、有利な点は多々あるが、その方法なり、決心は非常に難しいことである。建物、空地、河川、道路等の状況、気象条件、加えて火災によって発生する気象等一定していないので、火流の方向を判断することは難しい。関東大震災のとき、不幸にして、五万人の命をのんだ本所被服廠跡の事例もある。それ等の条件を十分平素研究しておかなければならない。
中でも大切なことは、状況把握のための情報収集である。ヘリコプターの十分な活用を含め情報収集系統が確立されていなければならない。この系統は命令下達系統の逆の活用であるから、平素の火災や水防等に確立されているところであり、大震火災の運用計画も検討されているので、焼け跡への集団避難要領を作り、あらゆる場面にあてほめて、実際に訓練をし、幹部だけは十分に体得して、時に臨んで決断できるよう養っておくべきだと思う。
その後は焼け跡を黙々と歩き、翌日上野広小路に出て、まだ焼け残っていた湯島の白梅でその名を知られている切り通し坂を登って本郷三丁目に出た。そこの親戚を尋ねて、東大赤門前に一先ず落ちつき二日と≡日を過すことになった。その時はじめて玄米の握り飯を乾給されたがうまかった。物価が急上昇し、特に食物は梅干が一挙に十五倍位になったと記憶している。さらに駒込の親戚に避難し、六日に郷里長野から来た貨物自動車に、子供だけ三人乗せられて疎開した。その間の朝鮮人騒ぎの流言にのせられての自警団の活躍や、一升瓶に玄米をいれて搗かされたことも、かれすすきの歌とともに遠い想い出の彼方に消え去った。しかし貴重なこの体験だけは消え去ることもなく、近い将来おきるかも知れないと言われている大地震に、再びあの惨事を繰り返さないための諸施策の中に活かしてゆきたいと思う。