その日は十一時半頃昼食が来たので、食べ終って、さて何をしようかと机の前に座り直した時、ドンという音と共につき上げられたと思うとユッサユッサとゆれ始めた。柱がギシギシと音を立て、壁の隅がこわれて土煙がもうもうと立ちこめ始めた。「これは大地震だ逃げなきャア」と立ち上がったがうまく歩けない。しけに会った船の甲板を歩いているような工合だ。「中田さん、早く逃げなさい」と玄関あたりから下宿の小母さんが叫んでいるが、コの字形の下宿屋の一番奥の部畳に居るのでなかなか思うように階段に辿りつけないのだ。その階段がまた前後に動いているので、足払いをかけられたようになり、たたらを踏んで危く転げ落ちそうになった。
その日というのは大正十二年九月一日。私は東京帝国大学理学部物理学科の二年生で、帰省もしないで、暑い東京に頑張って勉強していたのだった。十人ぐらい居た学生達は全部郷里に帰ってしまっていて、私の他に、夏休みのない会社員が一人居ただけだった。その人も出勤していて、私だけが部畳に居たという次第だった。下宿の小父さんは鼻の頭が赤かったので、私達ほ「赤鼻」というアダ名でよんでいたのだったが、玄関の前に藤椅子を持ち出して、「ここに居て下さいよ、中は危いから」というのでそこへ腰を下して、きて、どうしようかと考えた。一先ず大学へ行ってみようかということになり、同じような構えの二階建の下宿屋の間を通り抜けて電車通りへ出ようとした時に、大きな余震がやって来た。両側の下宿星の屋根がぶつかるかと思うほど近よったかと思うと、大きく開いて広い空が見えた。道路はモクモクと盛り上がり、うねっている。早く通り抜けないと建物が崩れかかってくると気は急ぐが、足は思うように運ばない。やっとの思いで電車通りに出たら、通り沿いの寺の石垣がこわれて、石が歩道に散らばってい、墓地が丸見えになっていて、いくつかの墓が倒れているのが見えた。「やっぱり大地震だったんだナア」と思いながら大学へ急いだ。電車の架線が切れて垂れ下り、車の見えない電車道に早くもチラホラそこへ避難するつもりらしい人影が見え始めていた。
大学の門から覗いた中の様子は普段とちっとも変っていなかった。それより本郷三丁目の交叉点あたりが燃えているらしく、煙が上がっていたので、それを見に行ったが、赤門附近に警戒線が張られていて近付くことができない。四つ角に銀行があって、そのうしろあたりが燃えているようだった。「本郷もかねやすまでは江戸の内」といわれた「かねやす」の真向かいあたりだろうと見当をつけた。南寄りの風だったので、火事はいつ電車通りを越えてこっちに移って来るか見守っていた。その内、大丈夫だと思っていた大学から黒煙が上り始めた。図書館のあたりだった。入ろうとしたが警官がどうしても入れてくれない。「ここの学生だから入れて下さい」と頼んでも「学生だか何だか分らんじゃないか」と頑として聞きいれてくれない。そう言われてみると私の服装は浴衣がけの下駄はきというだらしない格好だった。下宿に戻って学生服に着換えようとすると今度は小母さんが承知してくれない。着換えは外でする。取ってくるだけという事で入れて貰った。逃げる時は気が付かなかったが、今見ると、裏のお寺の庫裡が今にも倒れそうにこっちの方に傾いていた。
学生服の私を警官は黙って入れてくれた。図書館は盛んに炎を上げて燃えていた。時々本が燃えながらヒラヒラと飛んで来る。物理の教室はまだ燃えてはいなかったが、壁と柱の間が大きく割れて今にも壁の方が崩れ落ちそうだった。ドイツのゲッチソゲソ大学を模して作ったとか言われる荘厳な教室の無惨な姿がそこにあった。
ちょうど田丸先生も来て居られたので、「機械でも出しましょうか」、とお伺いすると「そうさな、雑誌でも出そうか」と言われる。膨大な量のフィルマグとかロイヤルソサイエティのプロシーディングスを持ち出すのは大仕事だナアと思っていると、先生も思い直されたのか「君は二階に上って図書館からの飛び火を防いでくれ給え」と言われた。二階に上って見ると壁の割れ目から空が見え、窓の外に立っている電柱がチョロチョロ燃えていた。図書館から一〇〇米以上も離れている電柱が何で燃えるのか不思議だったが、私の任務はこの火がこちらの窓枠に燃え移らぬようにすることだと水の入った大きなヤカンを抱えて頑張っていた。其の間にも時々余震があり、その度に壁の割れ目から煉瓦のカケラが落ちて来て生きた心地はしなかった。その内、小使さんが、「小使室に飛び火しました」というからすっ飛んで行ってみると、かなり部厚い洋書が炉傍に落ちて燃えていた。ヤカソの水が早速役に立った。そうこうしている内に図書館の火も下火になり、電柱の火も消えて類燃の心配も無くなったので、私は下に降りた。田丸先生はもうお見えにならなかったが、事務長さんが、「ごくろうさんでした」といって何粒かの落花生を掌に乗せてくれた。私はそれを噛りながら下宿に引き上げた。もううす暗くなっていた。
下宿に戻ると、小母さんが、「今夜の食事は差上げますが、もう米も買えないので、明日からはどうにもなりません。近くに親戚でもあったらそちらに行くとか何とかして下さい」という。これは大変なことになったナアと思いながら、玄関の上り口の板の間でローソクの火で夕食を食べた。
駒場の農学部(今の教養学部)の近くに伯父の家があるので、一先ずそこへ行こうと思い、肴町から白山通りを春日町に出ると、右側の砲兵工廠(今の後楽園)が火勢は衰えていたがまだ燃えていた。その間を通り抜けて水道橋に出ると、川向うの神田方面は一面に燃えていてとても突切れないと判断して引返すことにした。郊外の方はまだ焼けていないだろうから、今度は山の手線沿いに、駒込、目白、新宿、原宿というように歩いてやろうと思ったが、小母さんが「夜は危いからお止めなさい」と頼むように言うので、その夜は下宿の前の道で夜明しすることにした。蒸し暑い晩で、おまけに蚊の襲撃がきびしく、殆んどねむれなかった。夜半ごろ轟然たる音に驚かされたが、それは傾いていた庫裡が下宿に倒れかかった音だった。下宿はコの字塾の構造なので大丈夫だった。
昨日はあんなことを言ってたけれど、朝食を出してくれたので、それを食べ、小さな鞄に、少しの着替えと差し当り読み度い本を入れて下宿を出た。昨夜と同じ道を通った。神田は一面に焼けてしまってまだおきが赤く光って見えた。死体がところどころに転がっていて、焼けトタンが掛けてあった。爼橋の下の川にはガラクタが一杯浮んでいて、その間にも死体が浮いていた。何も言えない情けない気持になった。父母弟妹は遠く朝鮮に居て無事だけれど、伯父一家ほどうだろうと少々心配になる。三宅坂で出勤途上の伯父にバッタリ会った。伯父も私のことは心配していたらしく、早く行って無事な顔を見せてやってくれというので、勇気百倍、青山、渋谷を通って農学部前に出ると、日本刀を構えた壮士に誰何された。群の中に顔見知りの仕立星の親方が居たので、無事に通して貰えた。伯母や従弟達は家の前の広場に畳二枚持ち出し、囲りにコンロなど置いて野宿していた。夜はそこに蚊帳を吊るエ夫をした。伯母は私の顔を見ると、米屋へ行って来てくれと言った。米屋は白米は無いから玄米でどうですかという。玄米を一斗貰って来た。火事にやられないところでほ、やっぱり食べ物が第一の問題なんだと悟った。伯父が帰った時には白米を一升ほど持って帰った。職場で配給があったのだ。戦時中のように玄米を一升瓶の中に入れて搗いたという記憶が無いので、玄米は食べないで済んだらしい。
その夜は、よく知られているように朝鮮人の襲撃があるというので我々は近くの騎兵隊の管内に避難してくれという命令を受けた。道の辻々に剱付鉄砲の兵隊が立っていたので本当らしく思われた。井戸に毒を投入した奴があるから井戸水は飲んではならぬという命令も出た。これ等は皆流言飛語だった。
こんな暮しを何日かして、或る日授業はいつ頃から始まるのかと大学へ様子を見に行ったところ、授業は当分出来ないが、火災の調査をするから、毎日出て来てくれと中村先生に頼まれた。その仲間は上級生、下級生を含めて、三十人位居り、これを何丑かに分けて焼け跡に派遣し、もうボツボッ元の場所に戻ってバラック建ての準備をしている人達に、火事がどっちから燃えて来たか、この辺が焼けたのは何時頃か、風はどんなように吹いていたかなどの聞き込み調査をするのだった。調査は火事だけでなく、地震による建造物の破壊状況を調査する班もあった。私達は毎朝トラックに乗せられ、調査地区の近くに降され、調査が終ると又トラックに拾ってもらって学校に戻りた。私の受持の範囲は山手環状線の外上野駅から神田駅までの間を東にずっと引き延した範囲だった。聞く人によって話が違うので纏りがつかなくて閉口したが、中村先生が上手に纏めて下すって、震災予防調査会の報告にされた。東京市火災動態地図というのが我々の調査の結晶として生まれ、出火地点から火がどのように、いつ、どこまで燃えひろがり、どこで燃え止ったか、飛び火ほどこに生じ、それからどう燃えひろがって行ったか、風のむきほどうであったかなどが記入してある貴重な資料である。この報告には殆んど漏れなくいろいろの事柄が記載してあるが、私が受けた強烈な印象の二、三について述べれば次の通りである。
大火で下町の方は総嘗めにやられているが、その中で、ところどころ焼け残っているところがある。私の担当地区に和泉町、佐久間町という一角があった。ここは昔からよく大火に嘗められたので、町中が一致団結して、この町を絶対に焼かないようにしようと、若い衆連が死者狂いで消防に努力する習慣なので今度も焼け残ったと自慢していた。町の南側が神田川に沿っており、その頃はきれいな水が豊かに流れていたという水利に恵まれていたという利点もあったが、消さずんば已まずという気魄がこの町を助けたと私は思った。その当時山手線はまだ環状には運行されていなかったが、上野秋葉原間の高架線は出来ていて、火事ほそのために東側だけに高架線に沿って燃えていたが、ガード下に持ち出されていた荷物を伝って西側に燃えひろがったということである。大きな並木が火事をそこで食い止めたという例も多い。例の被服廠跡にも行った。遺骨の山がそこにあった。こんなにも沢山の人がここで焼け死んだ理由は何であったろうか。上野の山にも荷物を持った避難者が一杯居た。日比谷公園には行かなかったが、やはり一杯居たに相違ない。それなのに被服廠だけがやられたのは、ここだけがある種の竜巻きに襲われてこの竜巻きが火災を巻き込んでいてそれで持ち込まれていた荷物に火がついたのではないかと考えられることである。被服廠跡ほちょうどこの頃四方から火が迫って来るという状態になっていて、このことが火事の竜巻と何か関連があるのか、近くを隅田川が流れているという条件がこのような異変を起こしたのかよく分らない。この附近を調査していた時に、ある大きな樹の地上三米ぐらいのところに自転車がひっかかっているのを驚いて眺めていたら、「竜巻きのせいですよ。私も巻き上げられて隅田川におっことされたので命拾いしたんです。」とその辺で焼け跡を片付けた人が言ったので、竜巻きがこの附近を襲ったことは確実のようである。
さて、以上が私の関東大震災に関する思い出のうちの火災についてのものである。もう旧いことなので、鮮烈に印象に残り、今も忘れないことについて述べた。今後何年か後に同じくらいの規模の地震が起こる確率が大きいとなると、どうすべきだろうか。
今更言ったって愚痴になるだけだけれど、関東大震災の後、今日でいうところの防災都市の構想は出されたに相違ないが、いつとはなしに、ダラダラと自然膨脹するに任せたのは大きな誤りではなかったのか。住、商、工の混在する木造家星の都市構造をなぜもっと合理的に規制できなかったのだろう。ボヤいても始まらないのでわれわれはそれぞれの分野で、災害を最小限度に食い止めるための努力をする決意を固め、その方向に邁進しなければならない。大地震に際しての消防の活動の範囲は広いが、問題を火災に限って考えてみると、第一、火事を出さないようにすること、第二、出ても小さい内に消し止める。筆三、それでも消し得なかったら、大火にしないように絶対阻止することを考えよう。
ロスアソゼルスの地震ではガス管が切れて火を噴いた例が多い。日本でもその心配は多分にある。これは配管の処々に自動又は手動の阻止弁をつけ、大地震が起こったら直ちにガスの供給を止めるようにする。石油ストーブからの出火が東京では三万件にはなるだろうという。関東大震災の時は火元の数は一六三件であの大火になったのを思うと肌に粟を生ずるほどの思いがする。しかし、石油ストーブはゆさぶっても石油がこぼれないものに進みつつあるし、震動すると芯が引っ込む工夫もできている。それらを早く採用して、欠点があれは改良して行くべきであろう。関東大震災の時には丁度昼食時でもあったせいか、天プラ鍋からの出火も多かった。油火災の消火など粉末消火剤で簡単に消えるが、折にふれて訓練し、消し得るという自信を持たせておく事が肝要である。薬品からの出火も多かった。東大の火災も医学部の薬品出火からと言われている。これは少量危険物の防火対策の研究をやっているのでそのうち心配は無くなるだろう。製鋼所や硝子工場のように高温度のものが流れ出て火事になった例もあるが、近傍に可燃物が無いような設計にしてお
けはよい。石油類のタソクからは振動によって油が溢出するのは防ぎ得ない。そして新潟地震の時のように燃え出す可能性もある。そのために適切な固定消火設備の開発が急がれる。換業中の反応塔に亀裂が入ったとかパイプが切れるというのは一番始末が悪い。固定消火設備をつけ様がないからである。耐震反応塔、耐震パイプを開発して貰わねばならない。どんなに設備し、又注意しても火災を絶無にすることはむずかしいだろう。例えば初期消火に当るべき人が倒壊家屋の下敷きになって動けないという事もあろう。その他不可抗力で火事にまで成長するものも多多あるだろう。それに対しては地上消防隊が近づけるならば消火に当る。障害物その他で地上消防隊の活動が不充分なものに対しては空中から消火するか、適当の場所に消火剤を撒いて、延焼阻止作戦を行なう。関東大震災の例では出地震後三時間ぐらいまでならば、火事もそれほど広がっていない(勿論その時の風の強さにもよるが)から、それ位までに空中消防隊の出動ができるように配置および訓練を積んでおけたら大変有難いと思う。避難者の通る道を予めきめておいて、そこがある時間の間安全に通れるようにすることは地上消防隊の任務とされているが、次第によっては空中消防隊の協力を得てもよいであろう。
都市で一番問題なのは路上の自動車である。地震でハソドルを取られて衝突して発火する心配も多分にあるし、それが媒体となりて、道の反対側に延焼することも充分考えられる。関東大震災の時も路上の荷車を媒体として反対側の町へ火が移ったという例も沢山あった。この間題の早期解決が望まれる次第である。
被服廠の側から、避難地に入る人は一切荷物を持たないようにしなければならないし、竜巻きの発生原因をつきとめて、その発生を阻止する対策が取られるのが最善であるが、仮に襲って来たとしても可燃物が無ければ、あの様な惨事にはならない筈である。
大震災対策について書けばきりがないが、紙面の都合もあろうのでこの辺で擱筆するが、要ほ目標を定めて、計画的にその実現を図ることである。