第1回 大震災直後看護婦として奔走 参議院議院 藤原道子

 私の少女時代は、家の没落などもあって、大変生活の苦しい中で育ちました。学校も小学校5年で中退して、11才の時には新聞社の女工として家計を助けているような状態でした。幼な心にも、17才の時姉が病気をし、医者の治療もうけられずになくなったのを目のあたりにして、貧乏人が満足に病気の治療もうけられないことに非常な疑問を感じて、自分の一生を貧乏人のための看護婦として送ろうと決心しました。知人にお世話願って、15才の時単身上京して見習い看護婦としてスタートしたのです。

大正12年の大正大震災に遭遇したのは、看護婦生活2年目の21才の時でした。
当時、私は丸ビルの中にある開業医の看護婦として勤めておりました。地震のあった9月1日は、たしか土曜日だったかで患者も少ないし、疲れてもいたので休暇をとっておりました。それで四谷の知合い宅に泊まりがけで出かけており、そこの若奥さんと食事に出かけようと準備をしていたところに突然グラグラときて周囲の家具が倒れるなど大変な揺れ方でした。2階から急ぎ降りて路上に出てみると、なお余震が続き、大変な騒ぎでした。その夜はみんな外へ出て雨戸の上にムシロを敷して寝るありさまでした。しばらくして朝鮮人が井戸に毒を入れて暴動を起こしているというデマが拡がり都民に大きな恐怖心を与えました。その内火事が各地に発生して、当時私が住んでいた芝の下宿先は焼けたとのうわさを聞きました。
高台から見ると東京中が火災にあっているようにみえ、両親や兄弟が住んでいる向島は全滅だとのうわさがたち、もう親兄弟が死んだら自分も生きている甲斐がないと思い、何よりもその生死を確認しなけれはばらないと、周囲の反対を押切って出かけたのは、確か3日日だったと思いますが、火事は下火になっていたもののまだ燻り続けておりました。四谷から兄が勤めていた向島の金ケ淵紡績の社宅まで乗物がありませんので、着物に袴姿で、クツをはいて出発しました。神田のあたりに来ると、あちこちに死者がころがっており、電線は垂れ下がり所々火事も残っていました。
焼跡を進むにつれて死骸は次第に増え、これでは両親もだめだろうと思いながら行きましたら、神田だったと思いますが、バナナの叩き売りにあいまして、人間の生命力のたくましさに驚ろかされました。万が一生きていたら兄の子供達にとそこでハナナを買い、肩に背負って両国橋まで来ましたら墨田川に死体が流れており、どんどん増えていき、途中には一部焼け落ちた橋もあり、やむを得ず川の上を通っている水道管の中をクツをぬいで渡って向岸へたどりつく有様でした。
やがて多数の犠牲者をだした本所被服廠へ来ましたら、この世のこととは思えない程の死骸の山で、これ以上犠牲者が出ないようにと手を合わせて通り過ぎました。しばらく行くと、日本人が刀でたくさんの朝鮮人を切り殺しており、その惨状は目をおおいたくなる程で、我々日本人は、戦前の中国人、朝鮮人に示した迫害を考えると大意に謝罪しなければならないと思います。
また強く印象に残っていることに、当時本所あたりでは方々で馬を飼っておりましたが、それが綱で継ながれながら震災にあい、暴れながら死んでいったんでしょう。首が切れたり、腸が露出したりしてる死体があちこちに見かけられました。とにかく若い女一人が、四谷から向島まで一面焼野原のしかも死骸の散乱してる中を歩いていったわけで、今でもその時のことを夢に見ることがあります。
金ケ淵へ着くと、幸い両親の住んでる社宅は無事で、兄がちょっと怪我した程度でみんな元気でした。もし今日にもなって丸の内に住む私の消息がわからなかったら、何がなんでも捜しに行こうと家族の者が話合ってる中に私が帰ってきたものですから、みんなの喜びようったら大変なものでした。

ホッとする間もなく、今度は、私が看護婦になってから色々お世話になった先生が芝の看護婦会におるのを思い出し、その足ですぐ芝の方へ向かいました。看護婦会は焼けていましたが、近くの霊南坂教会に先生がおりまして、そこで今看護婦が大変不足していて大怪我しても救護されてない人々が沢山おる。警視庁では救護看護婦を急ぎさがしているので、君是非行ってくれとのことで、取るものもとりあえず、街に出て患者を看て廻りました。5、6日もほったらかしにされた病人や、ウジがわいてる死体がゴロゴロしており、とにかく玄米のにぎりめしを食べながら一心不乱にがんはり通しましたが、何日目かにトラックの上で咯血してしまいました。その間の疲労も重なったんでしょう。軽い胸結核ということで絶対安静を言い渡され、やむなく岡山に帰り静養するハメになりました。
大震災の体験、それに小さい時からの貧乏暮しが、私に看護婦という職業を通じ、さらに社会運動に走らせたのですが、そのころの体験が今の私をつくらしめたのだと思います。

大正末期とくらべて今は高層ビルや、多くの自動車が氾濫して、なお一層東京の地震に対する危険は増しております。あの時の経験からまず火災を出さないこと、そして人命第一の立場から救護設備や避難場所を確保するよう、国も都民も一体になって大地震対策に取組んでいただきたいと心から願っております。
国民総生産世界第2位といわれても、まだまだ人命を大事にする政治が行なわれているとは言えません。ヨーロッパでは、都市の中に広い道路や公園がありますが、日本の場合は、40階建の建物が密集地の中にあったり、大変危険な状況にあることをよく認識していただかないといけないと思います。