9月24日 熊本県・不知火町の高潮災害
〔発生日時〕平成11年9月24日 午前6時頃、台風18号が強い勢力(中心気圧950hPa、最大風速40m/s)を保ったまま、熊本県北部に上陸し、九州北部から中国地方西部を通過し、日本海に抜けた。
〔被害の状況〕死者31人、負傷者1,218名、建物の損害 全壊338棟、半壊3,629棟、床上浸水4,896棟、床下浸水14,755棟等
〔台風の状況〕台風18号の接近・通過に伴い、20日~24日にかけて、東日本から西日本の広い範囲にかけて大雨となった。また、広い範囲で強風が吹き、特に台風の中心やその南側で暴風となった。この影響で24日、愛知県豊橋市、豊川市で竜巻が発生し、365人が負傷した。熊本県八代海や瀬戸内海西部の沿岸では24日、台風の接近が満潮に近い時刻となり、高潮災害が発生した。これにより熊本県不知火町で高潮により12名が死亡した。
この時の熊本県牛深市では最大風速27.7m、最大瞬間風速66.2m。佐賀県大浦では潮位301cmを観測している。
〔過去の高潮による災害〕昭和34年〔伊勢湾台風〕伊良湖(愛知県温海町)では最大風速45.4m、最大瞬間風速55.3m、名古屋港で潮位389cmを観測。死者4,697名、行方不明401名、負傷者38,921名、住家全壊40,838棟、半壊113,052棟、床上浸水157,858棟、床下浸水205,753棟等の被害が発生した。
伊勢湾台風は、紀伊半島沿岸一帯と伊勢湾沿岸では高潮、強風、河川の氾濫により甚大な被害を受け、特に愛知県では、名古屋市や弥富町、知多半島で激しい暴風の下、高潮により短時間のうちに大規模な浸水、三重県では桑名市などで同様に高潮の被害を受けた。
9月11日 東海地方・東海豪雨
〔発生日時〕平成12年9月11日から12日
〔被害の状況〕死者10名、負傷者115名、建物の損害 全壊31棟、半壊172棟、床上浸水22,894棟
〔気象の状況〕平成12年9月11日から12日にかけて、日本付近に停滞していた前線に向かって、台風14号から温かく湿った空気が入り込み、前線の活動が非常に活発になった。これにより西日本から東日本にかけての太平洋側で長時間にわたり、活発な雨雲が発生・発達を繰り返し、大雨をもたらした。
〔東海地方の状況〕とくに東海地方では、名古屋地方気象台で428ミリを観測し、伊勢湾台風以来の浸水被害を被った。
この豪雨で名古屋市の新川が約100mにわたって破堤したほか、庄内川や天白川が越水するなど、愛知県とその近県で溢水、浸水、冠水が各所で発生した。これにより延べ61万人に対し、避難指示・勧告が出された。土砂災害も土石流、地滑り、崖崩れなどが全国で123件発生し、県道以上の道路では法面崩壊により124か所、冠水により95か所が通行止めになった。また、東海道新幹線が降雨規制により約18時間にわたって運行抑制になったほか、JR東海、各私鉄で22路線が運休した。また、約32,000戸が停電したほか、交通、ライフラインなどの被害をはじめ、都市機能の麻痺が深刻だった。
8月14日 神奈川県平塚市・グワニジン製造工場火災
〔発生時刻〕昭和45年8月14日 出火時間8時51分頃、覚知8時52分(119番)、鎮火9時30分。
〔被害の状況〕死者4名、傷者16名、建物の被害 全焼・鉄骨スレート葺き一部2階建(グワニジン製造工場、延べ111.8m2)、木造スレート葺き平屋建(実験室・休憩室、32.4m2)、半焼・鉄骨モルタルスレート葺き平屋建(変電室、14.4m2)、その他付近の建物9棟部分破
〔工場の概要〕シクランでレート、ピクアニド類等の医薬品、グワニジン塩類等の有機化学薬品、ブロム酸ソーダー等の無機化学薬品並びに塗料基材としてメチル化メチロール・メラミン樹脂等の製造を行っていた。
工場は、約18,000m2の敷地に、31棟延べ約3,297.74m2の事務所、研究室、倉庫、工場棟があり、危険物施設は、屋内貯蔵所3件、屋外タンク貯蔵所10件、一般取扱所4件の施設があった。
〔爆発前の状況〕8月2日に工場が完成したので、3日からテスト運転に入り、毎日操業し、特に5日からは3交代で作業を行っていた。
反応釜は、2基あり2号釜は工場建設の時新設されたものであるが、1号釜は前年12月に作成、他所で使用したものを移設したばかりであった。爆発はこの1号機で起きている。
〔警防作戦〕先着隊の現場到着は、爆発元硝酸グワニジン製造工場の屋根及び外壁は跡形もなく飛散し、鉄骨は至る所が曲がり、爆発のものすごさを呈し、工場北側に野積みされていた製品入りのドラム缶、446本のうち10本くらいが黒煙を噴き上げて燃え上がり、ドラム缶は次々と爆発し、火元北側25m離れた危険物中間タンク4基の内2基の通気管より火炎を噴き出し、BM工場東側にある危険物B中間タンク2基に延焼の恐れがあり、一刻の猶予も許されぬ状況であった。
先着隊は、消火栓に水利部署し第1線はホース9本を延長、爆発建物北側で通気管より炎上している危険物中間タンクに注水し、他の建物の延焼防止に努めた、第2線は、ホース6本を延長、本署隊に中継送水した。
他の消防隊も、付近の井戸及び河川に水利部署し、それぞれGN工場北側に野積みされていた製品入りドラム缶に注水し、他の建物への延焼防止に努めた。なお、エアーホーム1,500Lを使用する。
(目で見る警防作戦 坂本正監修より抜粋。)
8月1日 東京都・がん具花火工場火災
〔発生時刻〕昭和30年8月1日 出火時間16時30分頃、覚知16時31分(望楼発見)、延焼防止16時48分、鎮火17時04分。
〔被害の状況〕死者18名(爆死8名、焼死10名)、傷者83名、建物の損害 全焼15棟(966m2)、半焼2棟、ガラスの破損3,370枚、瓦の破損15,358枚(半径150m範囲)
〔出火原因・作業内容〕火元の建物は、木造モルタル塗スレート瓦葺き、1階(69.3m2)主として作業場と物置、2階(19.8m2)は居室であった。1階の作業場は厚さ5センチのタタキで、その破壊状況をみると、クラッカーボール(通称カンシャク玉)が3箱置いてあった位置は、長さ2.3m、横1.7m、深さ0.26mにわたって穴があいており、このクラッカーボール(リンゴ箱3個分)が、爆発の主因をなしているもののように思われる。
がん具店は花火の卸を主な業としているもので、梱包作業が多く、火薬を取り扱うということはないようであった。
出火当日の作業については、これに係わるすべてのものが死亡しているので明確な点は把握できない。
〔避難状況〕付近の住民は、爆発とともに大部分が避難し、一部柱の下敷きになった者や負傷者は、近所の者が病院に収容した。
所轄救助隊は、隊員9名をもって3名1組となり、2方面より検索、他の3名は、援護注水を行うも逃げ遅れはなかったので、負傷者の応急救護と焼死者の発掘に従事した。
〔延焼拡大の要因〕10数棟の建物が、爆砕されて可燃物が散乱し、非常に着火しやすい状態となった上、一瞬にして爆心地の周囲に火炎が広がるとともに、着火した花火が広範囲に飛散したため、ほとんど同時に着火した。
連日のカンカン照りと高湿に加えて、約8mの強風にあおられて延焼速度が急激になった。
木造建築物が密集していた。
(目で見る警防作戦 坂本正監修より抜粋。)
7月19日 埼玉県飯能市・子の権現(天龍寺)火災
〔発生時刻〕昭和56年7月19日 出火時間17時30分頃、覚知時間17時55分、鎮火20時30分。
〔焼損状況〕焼失 本堂及び拝殿116.64平米、えん魔堂19.44、大師堂34.2、秋葉神社6.6、渡り廊下90.0、半焼 本坊(庫裏)20.0平米
〔死傷者〕なし
〔周囲の状況〕現場は、埼玉県南西部に位置し、東京にも近く、荒川上流の名栗川沿いにある。周囲が小高い山に囲まれる中、海抜600m余りの「子の山」があり、その山頂に防火の神様「子の山権現」がある。
〔出火当時の状況〕出火当日、16時30頃から雷雨が始まり、徐々に雷鳴とせん光が共に激しくなり、付近にいくつか落雷した。17時20分頃、住職が被害状況を確認するため本堂、太子堂を一巡した。この時点では、建物に異状がなく、本坊に戻ったとき、直近に強いせん光を感じたが雷鳴はそれほど大きいとは思わなかった。
まもなくして、本堂から一条の煙が上昇するのが見えた。駆けつけると、本堂の屋根と天井裏に、直径20センチ程度の穴が開いており、天井裏は燃えだしていた。
住職は、直ちに通報しようとしたが落雷のため電話が不通となっていた。止むなく最寄りの人家といっても約800mを車で下山し、そこから通報した。
〔活動状況〕消防隊の出動は17時56分、せん光と雷鳴がとどろく、ドシャ降りの中の出動となった。先着隊として、可搬ポンプ積載の消防団が現場到着した。すでに本堂は焼失、拝殿は焼け落ち、太子堂か最盛期を過ぎ、渡り廊下が媒体となって本坊に延焼する寸前であった。
そこで可搬ポンプを宿坊裏の飲料水用貯水槽に部署して1線延長、渡り廊下の火勢を阻止した。現場到着した消防団第8分団ポンプ車隊は、現場付近は水利がないことを知っていたので、参道の途中にある砂防堰堤に部署。豪雨で増水した水をせき板とビニールで応急に堰き止め、緊急水利として使用した。
この8分団隊は、ホース18本を延長し、上部に待機している消防署のポンプ隊に中継し、消防署隊は、そこから山頂に向かってホース11本を延長、第10消防分団ポンプ車に中継し、第10分団はさらにホース8本をもって延焼防止に当たった。標高差130m、ホース延長700mを低所から山頂に1線送水したのである。
この火災における筒先進入、注水等判断が良かった。また、第8分団の機転を生かした砂防堰堤の利用は素晴らしい。これを決断した裏には、水量の予想が付かなければできないことであり、火災現場ではこのような判断と応用が大切である。しかも雷撃の危険を冒しての行動で、まさに決死的であったことはいうまでもない。
(目で見る警防作戦 坂本正監修より抜粋。)
7月5日 大阪市此花区・パチンコ店放火火災
〔発生時刻〕平成21年7月5日 覚知時間16時16分、鎮圧16時34分、鎮火20時22分。
〔焼損状況〕耐火造6階建、建築面積443平方メートル、延面積2,284平米、(16)項イの複合用途防火対象物 1階パチンコ店400平米、外壁15平米焼損
〔負傷者〕死者4名、重症5名、中・軽症11名
〔出火原因〕逮捕後の供述によると、ガソリンを赤色携帯缶で買い、現場近くに持っていき、ポリバケツに移し替えて持ち込み、店内のパチンコ台と通路に撒き、火のついた棒を投げ入れて放火し逃走した。
〔建物の状況〕パチンコ店は、6階建の1階で、北側に客用出入口1箇所(約2m)、通用口1箇所、南側に出入口2箇所(約2m)がある。
外部の燃焼状況は、南側の出入口2箇所のうち放火された東の出入口の上部ひさし部分に、かなり高温に晒されたものと推定できる炭化痕が認められる。しかし、ひさしから上部の炭化痕は幅約2mで4階まで達しているが、あまり濃いものではない。
もう一方の西の出入口の上部ひさし部分には、炭化痕が残っているが、ビル上階の外壁部分の炭化痕はほとんど認められない。また、西の出入口の西側に、上階への階段とエレベータホールがあるが上縁の一部を除いて炭化痕は認められない。
内部公開が行われていないので断定的なことは言えないが、バケツに入ったガソリン放火という状況から推察すると、放火した付近はもちろんのこと、他の部分も全焼状態に近いものと考えられる。
※集客施設における主な放火(疑い含む)火災
1.昭和51年12月 静岡県沼津市「らくらく酒場」火災 死者15人
2.平成2年3月 兵庫県尼崎市 衣料品スーパー「長崎屋」火災 死者12人
3.平成12年3月 兵庫県神戸市「テレクラ」火災 死者4人
4.平成13年5月 青森県弘前市 サラ金「武富士弘前支店」火災 死者5人
5.平成13年9月 東京都新宿区 「明星第56ビル」火災 死者44人
6.平成16年12月 さいたま市「ドン・キホーテ」火災 死者3人
7.平成20年10月 大阪市 「個室ビデオ店」火災 死者15人
8.令和3年12月 大阪市 「「西梅田こころとからだのクリニック」死者24人
-その他-
9.令和元年7月 京都市「京都アニメーション」火災 死者34人
(近代消防 平成21年9月号より抜粋)
6月15日 札幌市・仮設興業場火災
〔発生時刻〕昭和34年6月15日 出火時間14時51分、覚知14時48分ごろ推定、鎮火15時12分。
〔損害の程度〕八木サーカス 仮設天幕張建物4棟1,104平米ほか、岩沼ライオンショウ 仮設天幕張1棟211平米ほか、露天商等多数焼損 重傷者4名、軽傷者42名
〔消防署の事前対応〕消防署は、興業関係者に対して災害発生時の処置、非常口の保守管理、禁煙の励行、定員の厳守等について文書により通告した。仮設建物に対しては3回にわたる検査により完成検査が認められたもの。
〔消防の巡邏警戒〕祭礼警戒本部を設置し、警戒担当班は、各興業場を巡らし帰路の途中八木サーカス付近で火災を覚知し、直ちに群衆の誘導と混乱防止にあたると共に、隣接興業場場内観客の誘導と事故防止にあたった。
〔火災発見と初期消火〕ボーイスカウトH君が、交通整理中15時50分頃発見、サーカス小屋の垂れ幕が上下70センチ幅15センチ位燃えていたので隊長に報告、駆けつけた隊長は熊手で叩き消そうとしたが思うように行かず拡大していった。これを自宅で見ていた消防団員のOが、119番で通報した。第2報は、臨時巡査派出所から1秒の差で入った。
〔活動状況〕大通り先行隊の到着時は、八木サーカス北側半分程度が猛烈な火煙に包まれ、南方に急速に延焼中であった。到着と同時に全員で要救助者の検索及び避難誘導にあたり、逃げ遅れた8名を避難させ隣接の岩沼ライオンショウも検索したが避難後であったため、水槽車の第2線ホースを延長、協力残火鎮滅を行う。
大通り注水隊到着時の火勢は、八木サーカスの中央部から火炎が噴出して半分延焼中であった。消火栓に部署5本延長、大崎興業場内に進入、南側への延焼阻止にあたり、2線は3本延長、3線はホース1本で水槽車に補給した。
大通り水槽隊は、南進八木サーカス裏面に部署、1線は3延長、八木サーカスの南東側から進入火勢攻撃、2線は5本延長延焼阻止にあたった。
極めて延焼速度が速く、覚知から21分間に1,500平米焼失している。いかに天幕といっても早すぎる。やはり防水防腐を兼ねてクレオソート油、黒ローなど速燃性のものが塗布してあったからである。
(目で見る警防作戦 坂本正監修より抜粋。)
6月10日 東京都・帝国劇場火災
〔発生時刻〕昭和55年6月10日 出火時間7時45分頃、覚知7時55分、鎮圧8時20分、鎮火9時20分。
〔建物の概要〕帝国ビル((16)項イ 劇場、事務所)耐火造地上9階地下6階建、建築面積3,735平米、延面積3万9,967平米、劇場定員1,928名、従業員186名
〔消防用設備等の状況〕消火器 各階設置262本、自動火災報知設備、屋内消火栓設備、スプリンクラー設備(舞台部の放水区域 4区域、舞台部の開放ヘッド数237個)
〔発見の状況〕第1発見者は、舞台中央部のプロジェクター上で映写準備をしていた。作業中に舞台の上手上方を見ると、第5ボーダーライト付近の黒幕前のコードがたるんでいて、直径15センチ位の大きさで燃えているように見えた。最初はライトかと思ったが、燃えていたので「火事だ!」と叫んだ。
中央監視室で舞台のNo37・38の同時発報を確認している。
〔初期消火活動〕誰かの「火事だ!」と叫ぶ声がした、火は舞台上手の第5ボーダーライト付近のつり上げてある幕の下の方に30センチの大きさに見えた。舞台下手奥の屋内消火栓からホースを延長、第5ボーダーライト後方から消火した。火が燃え上がったため危険を感じ避難し、その後舞台下手で他のホースを使って消火にあたった。
副支配人は舞台下手にいたとき、上手の上方から火災が出ているのを確認した後、下手にある開放型スプリンクラー設備の手動開放装置を操作し、3放水区域を放水した。その後119番で通報している。
〔活動状況〕この火災防御の特徴は消火設備によって消火したことである。
現場到着の各隊は、水損を考慮して、放水のまま不必要と思われる屋内消火栓やスプリンクラーの止水に努め、舞台部奥の消火栓より1口延長、各所の消火にあたると共に残火整理と点検を行った結果、スクリーン、緞帳などの吊り物53枚その他セリ舞台、舞台装置など焼損し完全に鎮火させたのである。
この日は休演日のため観客等の人的被害はなかったが、舞台はメチャメチャ、照明が焼け落ちたり、舞台や舞台装置、道具類が焼失した。舞台裏には表から見ただけでは想像できないような吊り物、照明装置が数多く頭上に、そして地下6階までいたる深い奈落など数多くの舞台装置が詰め込まれている。このような特殊な装置をかいくぐっての消火活動は、落下、墜落など隊員自身の危険が多くつきまとう。また、開演中の場合は、人命救助、避難誘導に全力を投入しなければならない。部分焼で消し止められた火災であったが、問題を秘めた事例であった。
(目で見る警防作戦 坂本正監修より抜粋。)
5月21日 大阪市・住吉ゴム(株)火災
〔発生時刻〕昭和54年5月21日 出火時間14時00分頃、覚知時間14時01分、鎮圧14時15分、鎮火21時20分。
〔焼損状況〕鉄骨ブロック造陸屋根4階建、延面積468平米、作業場兼倉庫付全焼
〔負傷者〕死者7名(男3、女4)
〔出火原因〕溶接作業中の火花がポリウレタンホームに飛び火して出火。
〔発見時の状況〕第1発見者は火元東隣の主婦、供述によれば、「表が騒がしいので、玄関に出てみると、西隣の住吉ゴム1階から黒い煙が出ていたので、これは火事だと思い119番に通報した。」
〔先着隊到着時の燃焼状況〕阿倍野消防署晴明通出張所の先着隊が、火元西側に到着したが、そのとき、火元の建物は全階の窓及び出入口からゴム特有の黒煙と炎が噴出し内部進入できない状態であった。
懸命な消火活動、救助活動に努めたが、全階の窓、出入口から噴き出す黒煙と炎のため内部進入に手間どった。出火と同時にウレタンホームが燃焼し、大量の有毒ガスが発生、火勢鎮圧までわずか15分間に7人もの犠牲者をだす惨事となった。
〔多数の死者が出た素因〕当該対象物の階段は北側出入口付近に1箇所しかなく、各階ではウレタンホーム製椅子クッションの製造を行うため、大量のウレタンホーム及び石油系接着剤(第1石油類)を貯蔵していた。
出火箇所は1階資材置場の貨物用簡易リフト付近でウレタンホームが燃焼し、リフト通路の開口部及び階段から上階へ急に延焼拡大したもので、2階及び3階で作業中の者は、通報するいとまもなく、また3階設置の避難梯子を使用することなく死にいたったものと推定される。
〔死者・避難者の状況〕出火当時火元建物には、1階に1名、2階に6名、3階と4階に各3名の13名がいた。
4階にいた3名の内、1名は2階事務所まで避難しているが、ここで死亡、2名は無事避難している。3階にいた3名はいずれも2階まで逃げてきたが、ここで退路を断たれて3名とも死亡している。2階にいた7名の内、4名は避難しているが、3名は2階事務所で死亡している。
〔法令改正〕9月に消防法施行令が改正され合成樹脂類が特殊可燃物として新たに追加された。
(「近代消防」昭和54年7月号、特異火災事例(大阪市消防局)より抜粋。)
5月13日 東京都江東区・深川倉庫火災
〔発生時刻〕昭和52年5月13日 出火時間14時20分頃、覚知14時22分、鎮火17時08分。
改装中の米穀倉庫から出火、駆けつけた消防隊員が消防活動を始めたところ、「ポーン」という爆発音とともに倉庫入口から炎と黒煙が噴き出し、熱気が隊員をつつんだ。
〔焼損状況〕簡易耐火2階建 建築面積337平米、延面積674平米の内1階337平米、2階63平米焼損、収容物 米穀6,500トンのうち220トン焼損、簡易耐火事務所1棟 外壁6平米焼損
〔負傷者〕消防隊16名(重症5、中等症9、軽症2)、工事関係者5名(重症1、中等症1、軽傷3)
〔活動状況〕火災覚知と共に出動した先着隊長は、倉庫南側出入口より約10m付近に部署し、要救助のいないことを確認、内部に白煙が充満し、2階北西角より一部黒煙が噴出しており、内蔵品が米であることが分かった。
第1線を倉庫南側2階出入口へ、第2線は北側出入口へ、第3線は自隊防護のため延長していたとき、第2回目の爆発が起こり隊員3名が負傷した。このためホース延長による防御を中止し、壁体を小破壊し、車両固定の放水銃で防御にあたった。
はしご隊長は、各種状況からてい上放水すべく、北川出入口より9m付近に部署伸ていし、注水しようとしたとき、第2回目の爆発が発生し、隊長以下4名が負傷、車両はタイヤ・フェンダー付近が大きく焼損した。
爆発により隊員が負傷するも勇敢に防御継続中、第3回目の爆発が起こる。爆発後は、倉庫内進入、入口正面での防御を禁止。外部より壁体を破壊し、包囲的に注水順次内部に進入、鎮火させしめたものである。
〔倉庫の内装〕倉庫の内装に使っていた断熱材のウレタンフォームが溶接作業で暖められ、大量の可燃性ガスが発生、わずかな火で炎と煙を吹き出す現象で、大きな破壊力もないことから爆発的な燃焼「爆燃」と呼ぶことにした。
〔爆発的燃焼現象(爆燃)〕通常の火災で経験するフラッシュオーバー現象やバックドラフト現象と異なり区別して対応することから爆発的燃焼現象又は爆燃として統一された。つまり、フラッシュオーバーは「急速な化学反応によって大量のガスと熱気を発生し、急激に容積が増大し爆鳴及び破壊作用を伴う現象」に対し、この火災は単に「ボー」という鈍い音と共に火炎が数秒間噴き出す現象で、爆鳴及び破壊を伴わない極めて爆発に近い非定常燃焼である。
(目で見る警防作戦 坂本正監修より抜粋。)
5月6日 東京都新宿区・新宿赤十字産院火災
〔発生時刻〕昭和42年5月6日 出火時間0時30分頃、覚知0時32分、救出完了1時10分、延焼防止1時10分、鎮火1時25分。
〔焼損状況〕リネン室12平米、廊下・天井7平米
〔救出救護人員〕病児5名、未熟児55名、妊産婦7名、看護婦5名
〔建物概況〕地下1階地上7階の耐火造、建築面積903.36平米、延面積5,187.77平米
〔消防用設備等の状況〕火災報知器17基・各階、スポット型感知器45個・各階、消防隊専用放水口12箇所、救助袋3個 3・4・6階
〔発見状況〕看護婦Iは、出火したリネン室の南側隣室で午後11時30分頃から牛乳を温めていたところ、同室の天井付近から煙が出ているのを発見。廊下に出たところリネン室の扉の隙間から白煙がでているので、扉を開いたところ奥の方で何かが燃えており、急いで未熟児看護室に駆け込み、看護婦Sに火事を知らせた。事務宿直員であるMはIから火事の知らせを受けたので、宿直室の電話を使用し119番で火事を通報した。
〔避難状況〕妊産婦22名は、看護婦の避難・誘導によって、新生児を抱いてほとんどの者が自力で内階段から2階に降り、消防隊到着後付近の民家に避難させ、また手術直後の産婦がいたが、医師、看護婦によって救出された。また病児室の病児11名中6名はI看護婦が火災を発見した後、3名ずつ1階廊下のソファーまで運んだが、5名は濃煙のため入室不可能となり取り残された。
〔活動状況〕最先着隊が現場到着時の状況は、産院建物南側3階の各窓から白煙がでており、そのうち中央付近の窓から多く噴出していた。
この火災に出場の各隊は人命救助の先決を判断し、先着隊はホース延長と同時に3階病室の検索と未熟児の救出を行った。G消防士は中央階段から3階に上がったところ、階段口にいた看護師から突き当たりの病児室に4、5名の子供が取り残されていることを聞き、マスクをかぶり濃煙の充満する廊下を通り、病児室に達したが戸が開かないので足で蹴り、こけを破って進入し捜索するうち、西側の保育器の中に幼児が入っているのを4個発見した。
応援を求めたが誰もくる様子がないので、出入口に近い保育器を引き出し、戸の内鍵を外し階段口まで運び、ここで到着した隊員に渡し、引き返して同様の手段で救出した。
(目で見る警防作戦 坂本正監修より抜粋。)
4月17日 鳥取県・鳥取大火
〔発生時刻〕昭和27年4月17日 出火時間14時55分、鎮火日時18日4時頃。
〔被害状況〕死者2名、重傷2名、焼失面積444,727平米。風速10.8毎秒、湿度28%
〔火災の概要〕火災覚知とともに2消防署より5隊出動したが途中2隊が故障し、実質2隊がホースを延長し、受報5分後には、半焼程度で防御したが、その直後この火点より風下17m離れた市営温泉動源旅館より黒煙の噴出を発見、他の2隊とともに防御したが、風速15~18mという強風のため、有効射程も困難を極め火力は消防力を上回り、次々と突破され拡大していった。
〔拡大の要因〕
1.フェーン現象による異常乾燥と10mをも超える強風下に火災が発生した。延焼速度は、風下6.93m、風横1.66m、飛火合流火災10.6mという驚異的スピードであった。
2.水利は極めて悪く、火点付近に小河川1、水道消火栓2程で、配水鉄管は110mmで水圧は低く、消防車1台使用が限界で2台使用すれば共倒れが起こった。出火後2時間で水量不足から水圧低下が現れ、7時間後には完全にストップしてしまった。
3.消防力の不足、2署6台中3台故障、内1台は修理後戦列に復帰したが、人口6万余の都市では少ない。またホースも1台あたり10本では転戦は不可能となり、戦力は極めて低下している。
4.消防長等指揮者不在、会議に出席中のため署、団、応援隊等の指揮統制がなく連携ができなかった。
5.破壊消防は、職員数が少なく直接していない。応援消防隊が実施するも破壊器具の不足から効果はない。
6.飛火については、動源温泉の飛火が各所燃え上がり、これがまた飛火を発生させていった。飛火警戒はしていない。
7.注水消火不可能となり、応援消防隊は住民とともに家財の搬出に従事し、延焼火災は野放しの状態となった。焼け止まり線は風上の一部を除き自然鎮火している。
(目で見る警防作戦 坂本正監修より抜粋。)
4月10日 東京都渋谷区・東急ビル火災
〔発生時刻〕昭和40年4月10日 覚知12時42分、鎮圧13時52分、鎮火14時00分。
〔被害状況〕負傷 重傷1名、軽傷37名(消防職員19名を含む)、建物 鉄骨鉄筋9階地下2階、延べ3万759平米の内7、8階部分2,754平米焼失
〔建物状況〕建物は、完成を目指し工事中であり、工事はほぼ90%完成し、現在も内装工事中であった。
〔出火原因〕当日は7階での作業は火気を発する器具は使用されず、又火源となる作業火もなかった。よって原因として推定されるのは、食事のため、作業を離れる際の煙草の不始末、放火である。
〔発見状況〕火災となったビルの南方約70m隔てたKビルの2階事務所において、社員が南西ガラス越しに火煙を認め、119番により通報、これが第1報となった。
〔活動状況〕本火災の発生前の11時55分に、約2.6kmの離れた地点で、8棟全半焼の延焼火災があり防御中であった。同火災は12時27分に鎮火したが、15分後に本火災を覚知したものである。
方面本部長、消防署長は、無線により本火災を覚知し、各隊に対し速やかに本火災現場に転戦を下命するとともに、急遽本火災現場に出動、即刻火勢の状況を判断、所要部隊、必要資機材の応援要請を行った。
はしご小隊は、防御中でなかったのですぐに転戦、現場到着してみると、建物7・8・9階より猛烈に高熱・濃煙が噴出し、内部にいた多数の人達は、火煙に追い詰められ北側窓より半身を乗り出し、あるいは窓にぶら下がって救助を求めていた。
濃煙迫っている8階中央部窓に伸てい、まず重傷者・中等傷・軽傷の順に14名を救出、さらに9階に伸てい5名を救出、次いで8階の右窓に旋回して7名、最後に右端窓に旋回して5名を救助した。
ポンプ小隊は、6階で作業員に聞き込みを実施した結果、7階より上層部に多数逃げ遅れていると判明、1・2線とも6階よりロープによりホースを引揚げ、携帯ホースを結合、階段より7階に進入、1線は噴霧と併用しつつ濃煙高熱を排除し7階北側への延焼防止、火勢鎮圧後、8階に進入火勢鎮圧、延焼防止にあたった。
(目で見る警防作戦 坂本正監修より抜粋。)
3月21日 北海道・函館大火
〔発生時刻〕昭和9年3月21日 18時53分頃
〔被害状況〕焼失面積 103万3,612平米、焼死者2,174名、重傷者458名。風速22m、湿度66%
〔函館市の歴史〕函館市は、渡島半島の南端に位置し北海道有数の都市である。火災当時の人口は、27万7,400人であった。火災の歴史は文化3年10月の大火以来繰り返している。明治から昭和9年まで、100戸以上、焼失したものが23回になる。地形的影響とともに気象の悪化が重なり毎秒10m以上の西、又は東の風の中で半数が発生している。
火災対策については、過去の火災を検討して、諸施策が講じられてきた。
〔出火場所〕市内住吉町、S氏宅2階のこたつといわれている。強い風のため屋根が吹き飛びこたつの火が四散し、各所から出火したという。
〔拡大の要因〕報告書は次のようにまとめている。
1 最高24mという稀にみる台風にして、火勢猛烈を極め消防活動意の如くならず、水勢乱れて局所注水不可能に陥り、防火中時々消防手(士)が吹き飛ばされ、各所に飛び火し一時に発火したこと。
2 地形の関係により、延焼中頻に旋風突風が走ったこと。
3 発火地点付近に矮小木造家屋が連り市内全般にわたり、可燃物が多かったこと。
4 道路が概して狭あいで防火地区少なく、公園は都市計画上の施設未だ完成しておらなかったこと。
5 発火点は水道の終点になるため、水圧弱く水量が乏しかったこと。
〔死傷者が多かったこと〕
1 猛烈なる火流火膜は速度が意外に速く避難中火勢に囚われ、追い越された。
2 火粉と濃煙のため避難方向を見ることができなかった。
3 海岸に避難した人達は、大火流で焼死し、あるいは激浪にさらわれ、または凍死した。
4 台風のため歩行困難で、時々吹き飛ばされ夢中だった。
※地震災害、戦災を除けば、平時火災での人的被害の大きさでは、日本最大のものである。
(目で見る警防作戦 坂本正監修より抜粋。)
3月17日 福岡市・危険街区火災
〔発生時刻〕昭和55年3月17日 4時55分頃、覚知5時10分、鎮圧時間8時01分、鎮火9時25分。
〔付近の状況〕福岡の中州は有数の歓楽街で、キャバレー、スナック、バー等が軒を並べてその数3千ともいわれるほど小さな店舗が密集、ひしめき合っているところである。
〔被害状況〕負傷者 6名(消防職・団5名)、損傷程度 全焼7棟(35店舗)延べ2,947平米、半焼 1棟(6店舗)延べ67平米、部分焼2棟、水損3棟
〔発見・通報状況〕発見者は、現場を通りかかったタクシーの運転手で、現場から約100m離れた場所にある派出所に駆け込み通報、受けた警察官が事実を確認した後119番通報
〔活動状況〕同地区が警防計画でもマークされている木造密集地区で、防御活動上も困難を極める雑居ビル等も林立していることから、直ちに第2出動Bの指令を出した。
最先着隊は、現場から北側約200mほど離れた場所の中央消防署冷泉出張所である。覚知から4分後に最先着隊が到着したときは、京極通りに面した北側の木造2階建の長屋形式の飲食店店舗と南側の同構造の建物の双方の中心部付近から、火炎と煙が大量に上昇していた。
この建物は、長屋式住宅として建築されたもので、繁華街ということもあって、次第に飲食店街に改造された。各店舗の間仕切りは、防音を配慮して一部はブロック造りで工事されたが、小屋裏はなんの措置もないため、小屋裏を一気に火流が流れ棟全体を炎上させてしまった。
この火災の戦術の大きな特徴は、指揮者は積極的に後着隊に対し水利統制、担当面の決定など必要事項を逐次流している。
これは先着隊長としてのあり方を示したものだと思う。特に積載はしごの携行2階への防御の指示等は要を得ている。
今回の火災でも先着隊が到着したときは、消防力を上回る火勢となっていたものと判断される。出動指令も直ちに第4出動に切り替えられている。第2、第3出動という順次型通りのものもよいが、状況判断からこのような指令方法もよいだろう。指令は火災の規模や防御時間にもよるが、出動車両の90%が消火、火掛かりをしているので適切な判断であったと考えられる。
(目で見る警防作戦 坂本正監修より抜粋。)
3月6日 国道1号線 鈴鹿トンネル火災
〔発生時刻〕昭和42年3月6日 5時頃、覚知5時35分、鎮火16時30分。
〔被害状況〕車両13台、負傷2名
〔通報状況〕自動車を棄てて脱出した運転手が滋賀県側の茶屋に駆けつけ、電話で地元の駐在所へ、駐在所より消防分団と派出所へ、それから村役場→○○警察署→隣接警察署→市消防本部ではじめて受報した。
〔初期消火の状況〕三重県側からトンネルに入った、大型貨物自動車(スチロール樹脂製のアイスクリーム容器を積載)が、入り口から約30m入った地点で、エンジン部から出火した。滋賀県側から入ってきたタンクローリーが出火車の近くに停車し、この車に積んでいた消火器を借りて消火しようとしたが、使い方を知らず消せなかった模様。
〔活動状況〕覚知した市消防本部は、水槽付ポンプ自動車をただちに出動させ、6時10分に現場に到着した。トンネル入り口左側にある冬季道路凍結防止剤散布用の水槽(310㎥)に部署し、トンネル内の消火にかかった。消火活動は、主として三重県側で行われ、市消防本部は煙の中を進入して、噴霧注水と棒状注水とを用い手前の車から消火した。しかし、煙の吹き出しのため、隔離式万能型防毒マスクを着用して進入した。煙と高温により長時間滞留できず、トンネルの外に退去しつつ後退で消火した。警察の手配したレッカー車で消火した車を引き出し、残存車を消火する方法をとった。消火した車をトンネルの外に引き出すと再燃し、これを消火する必要があった。消火中、タイヤの破裂する音、天井のモルタルの落下音が間断なく響き、積み荷の内容が不明で一層不気味さを加え、消火活動は困難を極めた。
〔対策〕この火災に対して、一定以上の長さのトンネルについて、非常灯、又は通報装置、自動火災報知設備、消火栓など、トンネルの防火対策がとられた。
〔発生時刻〕昭和42年3月6日 5時頃、覚知5時35分、鎮火16時30分。
〔被害状況〕車両13台、負傷2名
〔通報状況〕自動車を棄てて脱出した運転手が滋賀県側の茶屋に駆けつけ、電話で地元の駐在所へ、駐在所より消防分団と派出所へ、それから村役場→○○警察署→隣接警察署→市消防本部ではじめて受報した。
〔初期消火の状況〕三重県側からトンネルに入った、大型貨物自動車(スチロール樹脂製のアイスクリーム容器を積載)が、入り口から約30m入った地点で、エンジン部から出火した。滋賀県側から入ってきたタンクローリーが出火車の近くに停車し、この車に積んでいた消火器を借りて消火しようとしたが、使い方を知らず消せなかった模様。
〔活動状況〕覚知した市消防本部は、水槽付ポンプ自動車をただちに出動させ、6時10分に現場に到着した。トンネル入り口左側にある冬季道路凍結防止剤散布用の水槽(310㎥)に部署し、トンネル内の消火にかかった。消火活動は、主として三重県側で行われ、市消防本部は煙の中を進入して、噴霧注水と棒状注水とを用い手前の車から消火した。しかし、煙の吹き出しのため、隔離式万能型防毒マスクを着用して進入した。煙と高温により長時間滞留できず、トンネルの外に退去しつつ後退で消火した。警察の手配したレッカー車で消火した車を引き出し、残存車を消火する方法をとった。消火した車をトンネルの外に引き出すと再燃し、これを消火する必要があった。消火中、タイヤの破裂する音、天井のモルタルの落下音が間断なく響き、積み荷の内容が不明で一層不気味さを加え、消火活動は困難を極めた。
〔対策〕この火災に対して、一定以上の長さのトンネルについて、非常灯、又は通報装置、自動火災報知設備、消火栓など、トンネルの防火対策がとられた。
2月21日 宮崎県・えびの地震
〔発生時刻〕昭和43(1968)年2月21日 8時51分、宮崎、鹿児島、熊本3県の県境付近の宮崎県えびの町(現えびの市)を震源とするM5.7、10時44分にM6.1、最大震度6の地震が発生
〔被害状況〕この地震は、えびの町とその隣接する鹿児島県吉松町(現湧水町)で大きな被害をだした。人的被害 死者3名、負傷者44名、罹災者数2万242人、建物被害 全壊498戸、半壊1,278戸、一部損壊4,866戸。
〔地震活動の特徴〕宮崎県内で発生する地震は、主に「南海トラフ沿いで発生する南海トラフ地震」、「日向灘での海域で発生する地震」、「霧島山周辺の火山性地震」です。今回の地震は、海域の地震に比べ、地震の規模は(M)小さいものの、火山性地震として戦後最大規模のもので、建物被害や道路等の損壊が激しかったのが特徴です。
〔発生時の状況〕大地震が起こる10日前、2月11日の午前3時過ぎから真幸地区を中心に「ドーン」という地鳴りを伴った人体に感じる地震が5回起こったものの、翌12日から次第におさまった。21日2時頃に真幸地区で再び地鳴りが発生し、住民によると「鳴動は以前から時折あったが、2時頃からは、ジェット機が飛ぶような音がして震動し、何度も繰り返して地下で雷が鳴っているような感じ、……」と話している。
主な被害は、山崩れや崖崩れによる土地の埋没、道路の地割れや堤防の亀裂及び決壊、交通被害や建物の全半壊だった。特に真幸地区は、川内川流域を中心に、運ばれてきた土砂が堆積した沖積層土壌と、火山噴火物の堆積したシラス土壌からなる地盤で、全壊した住宅数は町内の92%を占めている。
冬季のため暖房器具等の火気の使用も多かったと思われるが、火災は、えびの町全域で2件のボヤのみで、建物火災や山火事など大規模火災は発生しなかった。
(「えびの地震の記録」などより抜粋。)
2月6日 異常乾燥時の火災
〔発生時刻〕昭和56年2月6日 7時36分頃、覚知7時44分、鎮火12時05分。
〔被害状況〕損害 重傷1人、防火造2階建66.36平米(全焼)、耐火造3階建2,860平米(410平米焼失)、耐火造3階建549平米(60平米焼失)、耐火造5階建1,317平方(1,047.7平米焼失)計1,584.05平方焼失
〔通報状況〕近くの定員がバー「○○」の2階付近から火煙が噴出しているのを発見、119番で通報した。
〔付近の状況〕現場は、伊勢佐木町通りと若葉町通りに挟まれた街区、地形は平坦で、映画館、ボーリング場、マーケット、その他複合用途ビルなどが建ち並ぶ大きな繁華街である。水利は、半径100m以内に消火栓10箇所、貯水槽も1個あり、良好である。
〔活動状況〕先着第1隊は、覚知1分後に出動、そして1分後に現場到着、街区の火災と判断し、進行方向の火点前の消火栓に水利部署した。3階建てビル裏側一体は黒煙が濃く、火災は渦を巻き吹き上げ、火点は最盛期の状態で四周に延焼中であった。
直ちに7名乗車の強力な点を活用して一挙に3線、各線ともホース4本延長、1線は火点北側、防火造2階建に進入、よく延焼を阻止した要点である。1線は、盛んに延焼中の隣接耐火造5階建の北側にある内階段から2階に進入。他の1線は、ビル屋上において延焼防止にあたった。
第2着隊は、火点直前の消火栓に部署し2線延長。1線は、ビル東側より2階に進入。他の1線は、西側で火点からの延焼を阻止する。
第3着隊は、1線ホース6本延長、筒先分岐各1本を持って、3階建ビル東側に2口とも進入。第2隊と協力して、わずか60平米焼失させただけで防止した。これは効果的であったと認められるもので、特に3階への延焼阻止は評価できる。
この出動体制を分析してみると、その特徴としては、ポンプ車隊に重点が置かれていることだ。平均的な乗車人員は14隊に対して70名となり、1隊あたり5名の乗車を完全に確保している。火災現場では、ホースの延長数にもよるが、1隊2線延長を原則にしたい。何といっても防御の中核はポンプ車である。
(目で見る警防作戦 坂本正著より抜粋。)
2月2日 東京都文京区・国立盲教育学校火災
〔発生時刻〕昭和29年2月2日 11時40分頃、覚知12時00分、延焼防止12時26分、鎮火12時43分。
〔被害状況〕木造平屋 1棟191平米(火元)舎監室その他、木造2階建 1棟256平米教室、1棟446平方寄宿舎、1棟257平方寄宿舎、1棟66平方倉庫、木造渡り廊下96平方
〔通報状況〕校長の指示により、事務職員により119番で通報した。同時点で所轄の望楼も怪煙を認めている。
〔避難状況〕出火当時、校長以下44名、盲生徒207名。授業中であった生徒は、鐘の合図により、規定の計画によって担当教官に引率され避難を開始した。中・高等部の生徒は、本校舎西北角の稲荷神社の境内へ、初等科の生徒は、校舎西側のO氏宅地へ避難し、約5分完了し、怪我人もなかった。
〔活動状況〕覚知とともに、第1出動の各隊を出動、5分後出火建物の人命危険を判断し、第2出動及び16分後重ねて第3出動を要請し、部隊を増強した。
先着各隊の現場到着時の延焼状況は、火元建物は、すでに全焼し、火煙渡り廊下を伝送して寄宿舎の3分の1位まで侵入していたようである。第1線は初等科校舎への延焼防止、第2は南側の寄宿舎2階へ進入した。
北側は、火元建物の火炎5.5mの通路を隔てた2階教室の半分ぐらいまで輻射延焼していた。また、西側の本校舎、治療室建物、雨天体操場にも火炎が吹き付けていたので、屋外守勢の放水陣で、西側建物への延焼防止にあたった。
北側と西側とは、延焼防止に成功したものと判断し、東側の寄宿舎への延焼防止に未だ1口の筒先も進入していなかったので、後着隊の筒先を急速に要求したが間に合わず、建物の輻射延焼から2階が燃えはじめて全焼した。
(目で見る警防作戦 坂本正著より抜粋。)
1月24日 東京都江東区
深川都市ガス爆発火災
〔発生時刻〕昭和38年1月24日、出火6時43分頃、覚知6時47分、鎮火8時57分
〔被害状況〕(第一次火災)死者6名、負傷者35名(一般人26名、職員9名)内ガス中毒者15名、全焼5棟362平方、半焼3棟133平方
(第二次火災)全焼6棟、1,339平方
(第三次火災)負傷者数名、半壊1棟、小壊65棟
〔発生の状況〕三好町の鉄鋼商Nが6時30分頃自宅前を清掃していたとき、突然ドカンという大音響がしたので、音のした方を見ると先の歩道、車道にもうもうと白煙が上昇し、一瞬のうちに炎と変わり燃え上がったので急きょ自宅の電話で通報した。
〔ガス漏れの原因〕そばや前の内径650ミリ、高圧導管の溶接箇所に、最大幅8ミリ、長さ1,080ミリの亀裂があり、亀裂箇所から780ミリ横のガス導管の下に下水土管(220ミリ)があった。亀裂箇所から、ガスが漏洩し下水土管を伝わり本管に流入、各家庭の下水道、下水口、マンホール等を通り付近一帯に拡散した。
亀裂を生じた原因は、地盤沈下、重量トラック等の通行が複合していると推定。
〔活動状況〕出動途上、大富橋上で火災を望見したが、路面一帯の火炎と火点様相から判断して、タンクローリーの転覆か給油所の油火災ではないかと思いながら現場に急行した。
現場に到着してみると、油火災とは異なっているが普通火災ではなく、周囲にガス臭がして火点は白輝光の火炎に包まれた。高さ3.5m、幅6~7m、黒煙のない炎は電柱のトランス上部に達し猛烈なる火炎は、火炎放射器か、ガスバーナーを吹き付けているかの様相を呈し、建ち並ぶ建物に延焼していた道路は幅22m、長さ30mに渡り一帯は火の海、付近のマンホール4,5箇所から高さ1.5mの火炎を上げ、盛んに燃焼しつつあった。
〔第2次火災〕7時8分頃、筒先部署なり、包囲体制が整った。延焼防止の見通しもついたかと思ったとき火点から南へ200m先、平野町3丁目付近より黒煙の上昇するのを望見し第2次火災の発生を知る。
3丁目9の材木加工商店の妻が炊事場のガスレンジにより炊飯中、第1現場火災を知り表へ出て、引き返して見るとガスレンジの周りに青白い炎がただよっていた。レンジに近づいたところ「シュー」と音がして南側の排水口から1m程度の火柱が上がったので、ガスの元栓を止めて階段を上がろうとしたとき、ものすごい爆発が起こった。
〔第3次火災〕9時5分、第二次出火点よりさらに南へ110m離れたところの○○協同組合事務所で、住み込み人は火災も下火になり、そろそろ火をつけてもよいだろうと思って石油ストーブに点火すべくマッチを擦ったところ爆発が起こり、事務所横の下水道マンホールが猛烈に爆発したものである。
大爆発は1回、その他小爆発は多数発生、爆発範囲は半径250mの火を噴いたマンホールは14箇所、ほかに3箇所でガス漏れに起因する小火が発生したが大事に至らず付近住民により鎮火している。
(目で見る警防作戦 坂本正著より抜粋。)
1月20日 大阪市八尾市・アルミ工場火災
〔発生時刻〕昭和50年1月20日、覚知14時54分、鎮火16時20分
〔被害状況〕負傷者18名(職員 重傷3,軽傷8 市民 軽傷7)木造スレート葺き2階建作業場兼住宅1棟 310平方全焼
〔活動状況〕火災専用電話で「○○6丁目の△△金属隣のアルミ会社の窓から火が出ています」との通報により出動、現場到着時は、建物中央部及び西寄りが火炎に覆われ、各開口部より激しく噴炎しており、先着隊の司令補より「危険物があるから放水には十分注意せよ」と各車に情報連絡があった。現着各隊は建物東側にあるアルミ溶鉱炉に注意して遮へい物の陰や身を低くして建物西寄りに放水を始めたが、約3~4分後の15時9分突然爆発し、建物は全壊、隊員3名が負傷。
延焼している建物は東西に長く、西側は住居となっており、すでに激しい煙は出ていたが火炎はまだ出ておらず、中央部分のアルミクズ等からチョロチョロ火が出ていた。東側の炉には絶対放水してはいけないという報告は適切だった。
本部課長は現場到着後、南側の道路から東の誘導路へ、更に北側に回り、そこで放水していた隊に、東側に炉があるから絶対放水をかけるな、西の2階の建物だけとやかましく指示し、再び南側の入り口に戻った。とにかく、遮へい物の陰に隠れてやれと指示し、それから2m程走ったところで、バアーンと爆発が起きた。
翌日の調査でわかったのであるが、現場の北94m先の住宅1階のガラスが割れている、スレートの破片が53m離れた地面に突き刺さっていた。西側には、アルミの塊が積んであり幸いし、東側の誘導路を越えて草が燃えていた。
八尾市にはアルミ関係の工場が40数カ所あり職員は、教養で十分教えられていた。調査の結果では溶解炉は爆発していなかったことが確認された。
(目で見る警防作戦 坂本正著より抜粋。)
1月17日 新潟県上越市・積雪寒冷地火災
〔発生時刻〕昭和56年1月17日 8時38分頃、鎮火9時10分
〔被害状況〕木造1部2階建・事務所1棟、延べ面積109.29平方メートル全焼
〔火災発生の状況〕従業員がストーブに薪をくべていたが調子が悪く、煙が吹き返したので、煙突上部を数回たたいた。その後、用事を思い出し別棟の工場に行った。再び事務所に戻ったときには、1階天井に延焼し独立燃焼の形が整っていたという。そばにあった粉末消火器で消火としたが、全く効果がなく拡大するので通報した。
〔活動状況〕覚知後、直ちに出動する。現場到着が8時45分、先着の消防署から現場までの距離約5km、走行時間8分、積雪時でない時と比べ約倍の時間をかけての走行となる。その差4分間だけ野放しで拡大することになる。
雪寒地では、夜明け前の出動では車庫のシャッターを開け、降雪があったら除雪しながら出動になる。サイレンは鳴動しても音が雪に吸収され効果は激減して、走行する道路は圧雪やアイスバーンなど細心の注意をしての運転をしなければならない。
〔水利状況〕先着水槽車隊は、街区角の火災であったから前面道路の角に部署、ホース1線手びろめで延長、積載水で送水、唯一の通路である正面より進入。
第2着隊は、側面にある貯水槽を水利として背面から高さ3mの雪のへいを乗り越えこれも手びろめ進入した。これがなければ背面の倉庫は危険であったと思われる。
第3着隊は、火点西側の鉄道の反対側の貯水槽を利用しようとしたが、降雪と除雪が多量のため鉄道の横断溝によるホース延長が不可能だったので、約500m離れた国道沿いにある水利より中継送水して防御する状態で、水利状況は最悪であった。
〔雪寒地〕雪寒地の水利確保は、想像に絶する辛苦があり、夏期に使用可能な、農業用水は雪に埋もれ、その他の自然水利は凍結して、冬期には不能になる。
消火栓も降雪によっては掘り出しに巡回している。また、主要道路の除雪を除雪車がしているが跳ねた雪が歩道にたまるので折角掘り出した消火栓も埋もれて又掘り出しにいく。
積雪時の注水は、雪は中水を吸収し、家屋に対し荷重がかかり倒壊危険が増大する。
(目で見る警防作戦 坂本正著より抜粋。)
1月8日 認知症グループホーム火災
〔発生時刻〕平成18年1月8日 出火2時19分、覚知2時32分、鎮火5時5分
〔被害状況〕死者7人、負傷者3人、焼損面積 鉄筋コンクリート一部木造1階建 279.1平方全焼
〔発見の状況〕仮眠中の職員が「パチパチ」という音に気づき、共用室に行くとソファーなどが燃えており炎は天井まで達し、横方向にも燃え広がっていた。職員は、粉末消火器で初期消火を試みたが、消火不可能状態となり消火を断念。職員は施設の外に走り出し県道を走行中のトラックの運転者に助けを求め、借りた携帯電話から110に通報した。
〔避難の状況〕出火当時施設には、9人の入所者と職員1人が在館していた。
火災初期の避難誘導は、特に行われていない。通報で駆けつけた警察官と職員で入所者の救出にあたったが、入所者7人が死亡、残る2人と職員1人の3人が負傷した。
〔法令改正等〕当施設が認知症高齢者グループホームであったことから検討が行われ、火災発生時に自力で避難することが著しく困難な者が入所施設等にについて、
1.延べ面積が275平方以上の自力避難の困難者入所施設に簡易なスプリンクラー設備(水道連結式)の設置
2.全ての自力避難の困難者入所施設に自動火災報知設備及び火災通報装置の設置
3.収容人員10人以上で防火管理者の選任等
などの消防法施行令及び規則の改正が行われ、防火安全対策の規制が強化された。
12月21日 東南海大地震
〔発生時刻〕昭和21(1946)年12月21日4時19分、南海トラフに沿う3つの震源域の最西端、潮岬沖の海底で地変は西に延びて四国全体に及び室戸岬は約1m隆起を起こす、M8地震が発生。
〔被害状況〕死者・行方不明1,330人、全壊1万4,180戸、半壊2万1,318戸、流失2,109戸、浸水3万2,192戸、焼失2,602戸、船舶の流失半壊2,991。
〔発生時の状況〕高知県室戸湾の奥や須崎では広範囲に1mの沈降があり、一般に四国の周辺は数十センチ沈下し、塩田や田畑に被害を生じた。
大津波が和歌山県、高知県、徳島県の沿岸に襲来した。各湾の奥の波高は4~5mに達したところが多い。
〔各地の被害状況〕最も被害が大きかったのは、高知県の中村町(現四万十市)で、2,400戸余りが全壊。火災による焼失62戸、死者273人、四万十川に架かる鉄橋も9スパンの内、6スパンが落下した。
広域的な火災となったのは、和歌山県新宮市で、多くの家屋が倒壊すると同時に火災が発生して17時間も燃えつづけ、市街地の3分の1余り、2,400戸が焼失した。
地震の揺れによって、各所で水道管が破壊したため、消火用の水が使えなかったことが、延焼拡大をさせた要因と言われている。
津波は、房総半島から九州にいたる太平洋沿岸を襲った。津波の波高は4~6m余りに達し、紀伊半島南端の串本町袋では、6.9mを記録している。
高知県の須崎湾には、地震から10分後に津波が到達し、その後2時間半ほどの間に、6、7回襲来したという。とりわけ、津波とともに押し寄せた流木が避難行動を妨げ被害を拡大させた。
徳島県浅川村の震災誌によると、津波の第1波が襲来したのは4時40分で、高さは3.6m、第2波の襲来は、4時55分で、5.2m、第3波は、5時10分で4.4mとなっていて、第2波が最も高かった。
また、顕著な地殻変動が見られ、室戸岬で1m27センチ、足摺岬で60センチ、潮岬で70センチ、それぞれ隆起し、反対に高知市や須崎では、1m20センチほど地盤が沈降した。
12月13日 埼玉県さいたま市
ドン・キホーテ浦和花月店火災
〔発生時刻〕平成16年12月13日 20時0分頃出火、覚知20時20分、鎮圧14日3時5分、鎮火14日8時40分
〔被害状況〕鉄骨一部鉄筋コンクリート平屋建 2,237.7平方メートル焼損、死者3名、負傷者8名
〔出火原因〕火元は、同店入り口近くと推定されており、死者は火元近くで焼死体で発見された(後日、放火で女逮捕)。
〔関連火災〕平成16年12月14日22時40分頃、前火災の現場から約6キロに在所のドン・キホーテ大宮大和田店。12月26日1時51分頃、東京都世田谷区の環八世田谷店など、平成12年4月以降14店で放火火災等が相次いで発生した。
〔量販店火災の防止対策〕ドン・キホーテは可燃性の商品を高密度に迷路のように積み上げ、「熱帯雨林方式」という店作りで若者から支持を受け成長した企業である。
本火災を受けて、類似量販店等における火災の再発防止に伴う立入検査が全国で実施された。その結果は、次のとおりでした。
・違反指摘店舗数が多い項目(上位3項目)
項目:違反指摘店舗数/違反率
1.消火・避難訓練の未実施:1,104件/36.3%
2.階段・避難口の物件存置:757件/24.9%
3.誘導灯・誘導標識の管理不適:726件/23.9%
また、「避難、消火困難な物品販売店舗における防火安全対策検討会」が設置され、「多数の可燃性の商品が天井近くまで高密度に陳列された物品販売店舗等における防火安全対策のあり方について」検討が行われた。
12月7日 東南海大地震
〔発生時刻〕昭和19(1944)年12月7日 13時35分、南海トラフに沿う3つの震源域の遠州灘から紀伊半島南東沖にかけて、M7.9のプレート境界地震が発生。
〔被害状況〕損失家屋の内訳は、全壊20,130戸、流失3,059戸、全焼11戸、ほかに工場の全壊多数。
地震による直接の被害は、静岡県・愛知県・三重県の3県が最も多い。
〔発生時の状況〕海溝型の巨大地震であったから、大津波が発生した。津波による被害が大きかったのは、紀伊半島の南東の熊野灘に面した沿岸部であった。津波の高さは、三重県の尾鷲で9m、錦で7m、吉津で6m、和歌山県の新宮で3mに達した。
尾鷲には、地震発生から20分後に津波が襲来した。第1波よりも第2波の方が高く、港に停泊していた漁船を陸に押し上げ、家々を破壊した。第1波が去ってから、せっかく避難していたものの、品物を持ち出そうと家に戻り、第2波に呑み込まれた人も少なくなかったという。
〔飛び地での被害〕
震源地から250キロほど離れた、長野県諏訪市で、多数の建物が全半壊するなどの被害が発生した。諏訪湖の沿岸は、地盤が軟弱なため、おそらく震度6に相当するような揺れに襲われたと思われる。
〔内陸の巨大地震〕東南海大地震から約1か月後の昭和20年1月13日、愛知県を震源とする地震が発生、住家の全壊5,539戸、半壊11,700戸、非住家の全壊6,603戸、半壊9,976戸。陸地に上下の食い違い約2mの断層が生じた。
これほどまでの大災害をもたらしたにもかかわらず、戦時中で、厳しい報道管制が布かれていたので、国民にはほとんど知られることはなかった。
11月9日 東京都板橋区
イトーヨーカ堂火災
〔発生時刻〕昭和54年11月9日0時37分頃、覚知0時53分(119番通報)鎮火13時21分
〔被害状況〕焼失面積2,413平方メートル
〔出火原因〕1階出入口から入った中央レジ付近とみられるが、火源となるものがまったく存在せず、電気関係に起因する可能性もなく、出火原因は不明となっている。
〔覚知までの状況〕出火と同時に自火報が作動したが、主ベル地区ベルが停止されていた。そのため警備会社へ伝達されず、近所の主婦から119番通報されている。無人ビルを機械警備にしているとはいえ、関係者に対する教育と資質向上が強く望まれる。
〔延焼拡大〕火点は1階中央部、延焼は中央部にある2箇所のエスカレーター及びダクト、内階段である。エスカレーターは、水平区画のシャッターが開放されていると上昇気流を誘発し、室内の空気はそこに集中するので燃焼が助長される。換気中のダクトは、吸排気がはっきり区別されるが、停止中に火災になれば吸気部分でも排気として煙突効果が働き各階に火炎を拡大させる。
〔活動状況〕先着隊が到着時には、正面シャッターは赤熱して、内部進入は不可能な状態であった。赤熱しているシャッターに冷却注水を行いながら、エンジンカッターで切断。空気流入による延焼拡大を考慮し、外部から1階消火を開始した。正面に到着したはしご車隊は4階に注水したが濃煙のため、内部進入は困難を極めた。
他隊は、屋外避難階段から突入しようとしたが、各階とも施錠されていたので、防火戸を破壊して一斉に進入した。
一方、5階からの進入困難に陥った消防隊は、屋上の床面を破壊して注水口と排煙口を設け、噴霧注水を行い排煙消火等に大きな効果を上げている。
(目で見る警防作戦 坂本正著より抜粋。)
10月26日 兵庫県西宮市
タンクローリー転覆火災
〔被害状況〕昭和40年10月26日3時15分頃(推定)、第2阪神国道を神戸市方面に向かって走行中、運転を誤り仰向けに転覆し、横断歩道の市中に激突停止、液化石油ガスが、大量に噴出し拡散、火災が発生、死者5名、負傷者21名、全焼17棟、半焼半壊7棟、一部損壊9棟、自動車焼失9台、損壊23台
〔発生状況〕タンクローリーは、転覆の直前60キロ以上のスピードでジグザク運転していたと判断され、転覆の際、安全弁と液面計を破損し、安全弁は、ボンネット及びバルブスラムが破損飛散し、直径4センチ程度の穴が開き、ガスは、主として破損した安全弁から噴出したものと思われる。
噴出した液化ガスは、付近の道路側溝の集水ますより下水管を経て各家庭の台所、風呂場等に流れ込んだ。また地上部に流出したガスは、U字溝等を伝わり、あるいは風に流され拡散していったと判断される。
地上におけるガスの拡散範囲はタンクローリーを中心に概ね次の範囲であった。
東側 200~250m 西側 150~200m
南側 100~150m 北側 50~100m
〔活動状況〕付近住民は、あまりに音が大きく異様だったので、深夜にも拘わらず多数の人が起き上がった。「ガスが漏れている」と誰かが叫んでいる声を聞いて、110番で警察署へ交通事故の発生を通報した。時間は3時15分頃である。警察から3時23分通報を受けた西宮消防署は、化学車、救急車を出動させた。
出動後まもなく火災が発生した。望楼勤務員は、3時24分頃南方向に火災の上昇を認めた。出火報により、第2次特別出動(各署残留警備隊1隊のほか全車出動)を司令している。この判断は、実に良く火災の初期より全消防力で対応する作戦で臨んだのである。
到着当時の状況は、国道下り線に面した家屋は、一面火の海で一時は処置なしといった状況であった。一方未だ着火していない部分の混合ガスは、白い霧状になって流動していた。直ちに警戒区域の設定を指示し風下150m、風上約100mとするとともに、水利部署の基本原則に基づき風横に主力を傾注するため、プール、泉水、消火栓を利用し南方への延焼防止に全力を傾注した。
(目で見る警防作戦 坂本正著より抜粋。)
10月17日 横浜市・地下スナックガス爆発
〔被害状況〕昭和47年10月17日12時15分頃、1階が中華料理店、地下1階がスナックの、地下で爆発が起こり、死者4名、負傷者13名。木造アエン葺きモルタル壁2階・地下1階建、延面積267m2の内89m2損壊
〔発生状況〕ガス漏れの原因について調べでは、地下1階の調理台の脇にプロパンガスボンベが置かれ、周囲を木板で囲みその上をステンレス張りのコンロ台に2台のコンロが置かれていた。
2台のうち1台はコックが開かれており、コンロとボンベをつないでいたゴム管にネズミがかじった穴があいていた。
スナックは、17時から翌日1時30分まで営業しており、爆発する正午過ぎまで、かなりの量が室内に充満したものと思われる。換気装置も付けられていたが、閉店時にファンのスイッチは切られていたようで、密室状態になっていた。
爆発当時スナックは閉店しており無人だったが、1階の中華料理店及び2階の喫茶店には客・従業員等を合わせ30人前後がいた。
〔活動状況〕爆発で建物は、右側の隣接する建物に倒れかかり、1階の床(鉄筋コンクリート厚さ6cmから15cm)は吹っ飛び、ガレキの山と化し道路上には、中華料理店の、椅子・テーブル、冷蔵庫などが散乱。足の踏み場がないほどで、死傷者はガレキの下敷きになっていて救助活動は困難を極めた。
消防隊が現場到着の時点では、地下1階のプロパンガスと1・2階の都市ガスが噴出しており、都市ガスは13時50分頃ガス会社により閉鎖されたが、地下1階のプロパンガスはボンベ置場が不明のため21時頃ボンベが撤去されるまで、ガスが噴出する中で救出活動が続けられた。
(目で見る警防作戦 坂本正著より抜粋。)
10月1日 新潟市・新潟大火
〔発生時刻〕昭和30年10月1日2時50分、鎮火10時50分
〔被害状況〕死者1人、負傷者275人、焼失面積214.447平方メートル、風速22m/毎秒(瞬間33m/毎秒)、湿度59%。
〔発生状況〕台風第22号が日本海を北上し、フェーン現象から湿度が低下し9月30日の10時30分から火災警報を発令し、警戒体制に入っていた。10月1日台風が佐渡沖を通過した直後で西南西の強風が吹き荒れている中、新潟市学校町の木造2階建ての県庁第3分館の新潟県庁の2階屋根裏から出火。出火元の県庁分館はすぐに全焼した。近隣の大規模木造建物のアメリカ文化センターに燃え移り、さらに市役所、大和・小林の両デパートなど市の中心部を焼損する大火となった。
台風通過直後の強風が大火を招いた事例は、前年の29年9月の北海道岩内町の大火、戦前には、13年9月の富山県氷見の大火がある。
出火の原因は県庁分館の外灯が、つけ根のネジ釘にスパークしたことによる漏電だった。出火原因が漏電による大火は、新潟の一事例のみだが、昭和30年代前半、全体として漏電火災が増加の傾向を示し始めた。また東京消防庁管内では「当時年間60件前後の漏電火災が発生していた(火災予防行政三十年史)」。昭和36年3月に消防法施行令が制定されたが、消防用設備等の基準等が整理された際、特定防火対象物には電気火災警報器(漏電火災警報器の前身)の設置が義務づけられた。
9月29日 兵庫県姫路市・日本触媒
姫路製造所爆発火災
〔発生状況〕出火 平成24(2012)年9月29日13時00分頃、残渣混じりのアクリル酸の廃液(第4類第2石油類)が一時貯蔵タンク(許可容量70m3)の異常な温度上昇により爆発炎上。
〔被害状況〕消防職員1人死亡、消防職員・従業員等36人負傷。
〔火災概要〕管制室従業員がタンク上部から白煙が上がるのを発見した。
13時20分頃 自衛消防隊がタンクへの放水を開始。
14時05分 姫路市消防局 覚知
消防隊が到着時、隣接しているアクリル酸タンクとトルエンタンクに延焼し、自衛消防隊によりタンクに冷却放水中であった。
14時33分 消防隊が放水準備・爆発警戒中に、製造プランが爆発し、消防車両と自衛消防隊が巻き込まれ多数の死者・重傷者をだした。なお、死傷者はアクリル酸のゲル状物質を浴びて火傷したものと推定。
今回の火災で異常の発見から通報までに約40分以上経過していた。同事業所では、過去3回通報が遅れたことについて消防当局から迅速な通報の指導を受けていた。
8月26日 平成10年8月末豪雨災害
〔被害状況〕平成10年8月26日から31日までの間の豪雨により、福島県、栃木県、茨城県、群馬県等で、死者・行方不明者22人、負傷者55人、住家の全壊122棟、半壊142棟、床上浸水3,332棟、床上浸水1万1,517棟、特に福島県西郷村の「県立社会福祉施設 太陽の国」の救護施設「からまつ荘」では土砂災害により入所者5人が亡くなった。
〔発生状況〕平成10年8月26日から前線が日本付近に停滞し、さらに南海上をゆっくりと北上した台風第4号の影響で、前線が活発化し、特に福島県北部から栃木県にかけて大雨となった。栃木県那須町では、総降水量が1,254mmを記録した。余笹川や黒川などの中小河川が氾濫し、山間部から多量の土砂を含んだ河水が人家や田畑に甚大な被害を与えた。関東と東北を結ぶ幹線道路の国道4号線は、余笹川にかかる余笹橋が流失一部区間で不通となった。JR東北本線も盛土崩壊により、一部区間で約1か月間不通となった。また、栃木県内の畜産農家の飼育する牛が多数流され、多くが死亡した。
平成10年は、年間を通して全国的に多雨であった。特に8月から9月にかけて記録的な大雨が降り、各地に大きな被害をもたらした。台風の発生数は16個と少なく、昭和26年以来、最小記録であった。しかし、日本に上陸した台風は4個で、平年の2.8個と比べて多く、各地に被害を及ぼした。
8月19日 三重県多度町・三重
ゴミ固形化燃料(RDF)発電所火災
〔被害状況〕平成14年8月14日2時10分頃、爆発事故が発生し、作業員4人が火傷を負った。この事故後、桑名市消防本部が消火・冷却活動を行っていた。
8月19日14時17分頃、RDF貯蔵庫が爆発し、消防職員2名殉職、作業員1人負傷。
〔発生状況〕三重県多度町の三重ゴミ固形化燃料(RDF)発電所で、7月中旬頃から貯蔵庫内のRDFが発熱し、異常高温状態が続き、三重県企業局と管理運営会社が対処していた中、平成14年8月14日2時10分頃、爆発事故が発生し、作業員4人が火傷を負った。
この事故後、桑名市消防本部が貯蔵槽に対し、断続的に消火・冷却作業を行っていた。8月19日早朝から作業を開始し、貯蔵槽上部の点検孔を開けてRDFに直接放水を行っていたところ、突然爆発した。貯蔵槽の屋根は約200m離れた丘陵地帯まで吹き飛んだ。これにより、貯蔵槽上部で作業をしていた職員2名が殉職、作業員1人が負傷した。
また、21日からは貯槽内部が激しく炎上し、三重県知事の要請にもとづき、緊急消防援助隊が派遣され、RDF貯蔵槽上部からの貯槽内への直接放水や下部からの放水による消火と併せてRDFの取り出しなどを実施し、9月27日に火災は鎮火した。
本事故を受けて指定可燃物に1,000キログラム以上の再生資源燃料が追加され、消防法施行令で、再生資源燃料を貯蔵し、又は取り扱う防火対象物又はその部分には、水噴霧消火設備等を設置することとされた。
8月3日 長野県松代町(現長野市)
松代群発地震
〔発生状況〕昭和40年8月3日、微小地震が3回記録されたのをはじまりに、その活動が終息したとみられる昭和45年末までに、松代町で有感地震が6万2,821回群発した。
〔活動状況〕地震は発生以来、断続ながら回数の漸増傾向を維持し、昭和40年11月からは震動が強まり、11月22日には有感地震223回を含め2,000回に及ぶ多数発生し、そのうち震度4を3回記録した。その後、昭和41年1月23日と2月7日には震度5の地震が観測された。41年3月中旬に入ると、地震回数が再び急増し、主な地震の発生域も従来より東西に広がり、松代町を中心とした直径12キロの園内で起こるようになった。また異常な地盤傾斜もみられるなど、事態は悪化した。3月下旬には活動がさらに活発化して、1日の地震回数が350回を超え、4月17日には震度5が3回、震度4が3回も記録され、有感地震は1日に661回に達した。このあと5月28日には、松代町を中心に最大規模のM5.2、
震度5地震が起こり、負傷者2人をだし、家屋等に被害を与えた。
松代群発地震全体の人的被害は、負傷者15人、住家への被害は、全壊10戸、半壊4戸。
7月28日 神戸市・都賀川水難事故
〔発生日時〕神戸市灘区の都賀川で、平成20年7月28日15時00分頃、水難事故が発生。
〔発生概要〕活発化した前線の影響により、同日14時44分頃から神戸市に突発的、局所的な集中豪雨が発生、水遊びなどで都賀川や河川敷にいた16人が急激な水位上昇(10分間に1.3m増水)により流され、11人は救助されたが、子ども3人を含む5人が死亡。
〔河川の概要〕都賀川は、上流六甲川としてその源を六甲山に発し、山間部を南流して篠原中町に達し、右支川の杣谷川を合わせ都賀川となりその流れを南西に転じて大阪湾に注ぐ、法廷河川延長1.80kmの二級河川である。
流域の地形は、山間部では六甲山地の急峻な急斜面が大部分を占め、山麓には段丘が、以南の市街地部は扇状地が広がっている。
〔事故の経過〕当日の都賀川周辺は14時頃まで晴天で、川遊びや川辺を散歩する人が大勢いた。しかし、前線の影響で大気の状態は不安定で、13時20分に兵庫県南部に大雨洪水注意報、13時55分には大雨降水警報が発表された。14時30分頃から急激に濃い黒雲が空を覆い雷が鳴り始めた。14時36分より降雨が始まり、14時40分には視界が悪くなるほどの激しい雨になった。この雨の影響により、川の水位は15時までに1.3m上昇、河道内両側の遊歩道が冠水。この急激な増水により河川周辺にいた人のうち41人は自力で避難したが、16人が濁流に流された。うち11人は救助されたが5人が死亡した。
7月21日 明石市・花火大会歩道橋
観客将棋倒し事故
〔発生日時〕平成13年7月21日20時40分頃発生
〔発生概要〕明石市などが主催した大蔵海岸での花火大会が終了した直後、JR朝霧駅側から歩道橋に人が流れ込もうとしているところに、見物を終えた海岸から駅に向かおうとした人の流れがぶつかり、歩道橋の上で人々は身動きできなくなったところへ群衆雪崩が発生し、死者11人、重軽傷者132人という大惨事が起きた。
〔事故概要〕歩道橋は、幅6m長さ約100mで、南端部で西に90度折れ、幅3mの階段を降りて会場に行くようになっていた、この歩道橋が会場への唯一導線(迂回路もあったが、かなり遠い)であったため、朝霧駅で降りた約3万人の見物客は、その殆どが歩道橋を通って会場に向かおうとした。花火大会が始まる1時間前から混雑し始め、花火大会が始まる19時45分には、歩道橋の南半分では一歩も進めなくなっていた。事故は花火大会の終わった直後の20時40分頃に発生した。
事故調査委員会報告書概要「…歩道の上で最大時約6,400人が滞留。1平方当たり13人~15人という超過密となり1人約130~200kg以上の力を受けた状態で「群衆雪崩」が発生した。事故は午後8時45分から50分にかけ、橋の南端部付近を起点に発生した。見物客6、7人が折り重なって転倒、高さ約1.5mに達する人の山ができ、300人から400人の人が巻き込まれた。
同一方向に人が倒れる「将棋倒し」ではなく、両足が浮き上がるほどの超過密状況の中でかろうじて支え合っていた群衆のバランスが崩れ、四方八方からねじれるように倒れた群衆雪崩だった。群衆によって生じた圧力は、進行方向に向かって幅1m当たり400kgだったと推定。「大人でも胸部圧迫によって呼吸困難で立ったまま失神することもあり、ましてや子どもや高齢者にとっては極めて危険な状態」だったと指摘している。
昨年10月の韓国・ソウル市梨泰院の群衆雪崩事故も教訓に、多数の人があつまる催し等における警備体制を考える必要があります。
7月2日 京都市・鹿苑寺(金閣寺)
放火火災
〔火災概要〕昭和25年7月2日2時30分頃、覚知7月2日3時7分望楼発見、鎮火3時50分。
〔損害〕(1)国宝金閣(舎利殿)延べ362.5平方焼失 (2)焼失した木像等 足利義満座像(国宝)等、周辺の樹木など。
〔火災原因〕鹿苑寺内 徒弟僧Hの放火
〔初期消火〕7月2日3時7分上京消防署室町出張所の望楼発見により、千本北大路方面出火の報告により火災を覚知し、現場からの連絡により国宝金閣の炎上を確認したもので、先着隊が現場到着した時はすでに建物内は火炎が充満し、屋根が抜け一面火の海と化し凄惨な状態であった。
鹿苑寺境内には、住職ほか15名が就寝していたが、だれ一人異常に気付かず消防隊のサイレンの音で金閣の火災を知り、現場へ駆けつけたが、すでに手がつけられない状況であったため初期消火はしていない。
〔活動状況〕先着隊が現場到着した時はすでに同建物は火災で一面火の海となっていた。出動各消防隊は猛火の中必死になって消防活動を敢行、かろうじて黒焦げとなった足利義満公座像を搬出したが、金閣は1層、2層の骨組みを残し焼失、さらに付近樹木多数を焼損失している。
〔全焼した理由〕(1)当時自動火災報知機が故障し、その機能を失っていて、寺側の関係者が早期に発見できなかった。また、建物がうっ蒼とした森林に囲まれているため火災が拡大して火炎が上空高く上昇しなければ発見することは困難であった。
(2)境内への進入路は、表参道入り口のみでほかに進入路はなかった。山門前で消防自動車を停車させ、山内進入用の足場を置き、参観門等を開扉するのに相当な時間を浪費。また、庭内通路は、こけを広げ柵を張り巡らしていたため通路の幅員が狭くなり、消防自動車の進行が困難であった。
(3)3層総ひのき造りで楼屋はひわ皮をもって葺かれ、燃えやすい構造の建物であった。
(「目で見る警防作戦」坂本 正著より抜粋)
6月29日 栃木県佐野市
両毛精神病院火災
〔発生状況〕出火 昭和45(1970)年6月29日20時00分頃、覚知 20時12分、鎮火 21時10分。
〔被害状況〕死者17(一酸化炭素中毒)人、負傷者1人。防火造一部木造平屋病棟1棟334.54全焼。
〔出火原因〕19時30分頃、第2病棟(男子重症病棟)に収容されていた患者47名のうち、6名が脱走するための手段として放火、うち1名が病棟のほぼ中央部にある布団部屋に侵入したうえ、前日に看護師から盗み取ったマッチを使って新聞紙に放火し、出火に至ったものである。
〔病院の概要〕診察棟 防火造一部2階建、第1病棟 耐火造2階建(男女軽症者を収容した開放病棟)、第2病棟 防火造一部平屋建(男子重症患者棟として使用)、第3病棟 防火造平屋建(女子重症者が収容されている)、結核病棟。
収容定員は、156名であったが、精神病院施設の不足等から、定員を28名超過する184名が収容されていた。職員は院長以下60名で、そのうち看護婦、看護人は40名で、看護婦の半数、看護人は全員が無資格者であった。
〔初期消火の状況〕患者Oは患者Mが放火に成功したのを確認後、看護人室の扉を叩きながら「火事だ、火事だ」と騒いだ。看護人Aがその声を聴いて周囲を見渡したところ、押し入れ上方の窓ガラスに火が真赤に映っているので、急いで扉を開け廊下に出ていったん施錠した後、布団部屋前に駆けつけた。そして洗面所からバケツに5、6杯の水をくみ夢中で消火に当たった。事務長、看護婦3名は出火当時、事務室におり患者の騒ぎで火事を知り消火器を持って初期消火に従事している。また、病院長の妻は自宅で火事を知り、屋外消火栓のホースを延長したが、操作要領が不明のため放水できなかった。この屋外消火栓は市の水道に直結されたものである。
(「目で見る警防作戦」坂本 正著より抜粋)
6月15日 明治三陸津波地震
〔発生状況〕明治29(1896)年6月15日19時30分頃、三陸沖約200キロ沖を震源とするM8.2の地震が発生。
〔被害状況〕三陸沿岸の人々によるとゆらゆらとした弱い地震の揺れを感じた程度であったが、三陸沿岸から北海道南部沿岸に大津波が襲来した。被害は、宮城・岩手・青森の3県の家屋流失6,049戸、全壊537戸、非住宅の流失2,477戸、全壊239戸、合計9,302戸、死者(行方不明)21,959人。
〔津波襲来の状況〕小さな揺れの地震が30分前後(20~50分)で、岩手県を中心とする三陸海岸一帯は大津波に襲われた。津波の波高は、綾里村(現大船渡市)で38.2m、田野畑村で29m、田老村(現宮古市)14.6mと記録されている。今の4階から10階建てのビルぐらいの高さの、山のような大津波が津々浦々に押し寄せ、家と人々を捲き去ったのである。時間にして、わずか30分から1時間足らずの、あっという間の出来事であった。
最大の被害県は岩手県で、一家全滅の家が728戸あった。町村別に見ると、田老町では人口の83.1%に当たる1,864人、唐丹村(現釜石市)では66.4%に当たる1,684人、綾里村では56.4%に当たる1,269人、釜石町(現市)では、53.9%に当たる3,764人が溺死したのであるから、ほとんど全滅に近かった。
後の研究によって、この大津波を発生させた地震は「津波地震」、俗には「ヌルヌル地震」「スロー地震」などと云われる性質の地震であることが分かった。揺れがさほどでもなかったが、その割に地殻変動量の大きな地震で、その反映で津波も大きかったことになる。
津波は、海底地震による地殻変動に起因するものであることが判ったのは、この大津波の後、十数年にわたる学者たちの口論乙駁(こうろんおつばく)の論争を経てからのことであった。
(「津波の恐怖-三陸津波伝承録-」山下文男著より 一部抜粋)
6月10日 群馬県尾島町・化学工場爆発火災
〔発生日時〕平成12年6月10日18時08分発生、18時09分覚知、23時10分鎮火。
〔被害状況〕死者4人、負傷者47人。倉庫、事務所等4棟全壊、焼損4棟。周辺の家屋の被害は、工場を中心に半径1.5キロに及び半壊7棟、一部損壊254棟、車・工作物16。その他の被害、停電被害249世帯、電話被害47回線、水質汚濁石田川で水質悪化による魚の大量死、水道取水停止(館林市等5市町村)。
〔発生状況〕化学薬品製造の日進化工(株)群馬工場において、ヒドロキシルアミン(劇物)をタンク内で再蒸留していた際、何らかの原因により爆発が起き、火災が発生し、多数の死傷者が発生するとともに、敷地内の工場及び付属設備、また、付近周辺の建物の窓ガラス等が破損したもの。
〔活動状況〕火災現場から直線距離で250mの位置にある消防署の職員が大爆発を体感し自己覚知した。一方、付近の通行人等から通報、内容から現場の異常な雰囲気や多数の傷病者が予想された。
出場した化学車から、無線で第2出場及び管内の全救急車の出場要請が入る。太田地区消防組合消防本部は、初期段階から第2出場を発令、化学車4台及び水槽付ポンプ車等5台、救急車8台を出場させる。
18時23分 伊勢崎市消防本部に応援要請、18時30分 桐生市消防本部に応援要請、群馬県防災ヘリコプター出場、18時35分 非番員非常招集発令、18時40分 管内救急告示5病院及び伊勢崎市内2病院に収容依頼。
正門より敷地内に進入、爆発した蒸留塔東に関係者2名を確認。蒸留塔の建物は爆発により破壊され、原型をとどめていない状態で、敷地内も足の踏み場もないほど金属等の破片が飛散していた。
要救助者の確認と建物全体の検索 ア 要救助者を検索中、従業員から「中に4人いた」という情報を得るが工場内を検索できる状態ではない。イ 正面中央道路東側の建物タンク等は火災確認できず。西側タンク及び建物等は、爆発のあった蒸留塔南に小規模の火災が2箇所発生を確認。
平成13年7月の消防法の一部改正で、ヒドロキシルアミン等が危険物に追加される。
(雑誌「近代消防」平成12年(2000)8月号(No471)より抜粋)
5月21日 ウレタンホーム燃焼で有毒ガス発生火災
〔火災概要〕大阪市阿倍野区住吉ゴム(株)から出火、昭和54年5月21日14時頃、覚知14時1分、鎮圧14時15分、鎮火21時20分。
〔被害状況〕鉄筋コンクリート造4階建、作業場兼倉庫付事務所、延面積444平米 全焼、死者7人
〔発生状況〕工場はウレタンホーム製椅子クッション製造のため大量のウレタンホームと石油系接着剤(第1石油類)を貯蔵、使用していたため、出火と同時にウレタンホームが燃焼し多量の有毒ガスが発生。社内にいた15人のうち鎮圧までのわずか15分間に7人もの犠牲者を出す惨事となった。
〔活動状況〕第1発見者は東隣の主婦で、表が騒がしいので玄関に出てみると、西隣の住吉ゴム1階から黒い煙が出ていたので通報した。
先着隊は、火元西側到着したが、火元の建物は全開の窓及び出入口からゴム特有の黒煙と炎が噴出し内部侵入はできない状態であった。
出火箇所は1階材料置き場の貨物専用リフト付近でウレタンホームが燃焼し、リフト通路の開口部及び階段から上階へ急に延焼拡大したもので、2階及び3階で作業中の者は避難する暇もなかったと推定される。
出火原因は、リフトの修理中の溶接の火花が原因と見られる。
(雑誌「近代消防」昭和54年7月号より 抜粋)
5月16日 1968年十勝沖地震
〔発生状況〕昭和43年5月16日9時49分、北海道襟裳岬の南方約120キロ沖を震源とするM7.8の地震が発生
〔被害状況〕被害は、青森県東部を中心に、岩手県、北海道南部にわたった。特に、八戸市・三沢市・十和田市・野辺地町・むつ市及びその周辺。死者・行方不明52人、負傷者329人、全壊676棟、半壊2,985棟、全・半焼18棟、床上・床下浸水529棟、一部損壊15,483棟。
また、この地震に伴い津波が発生、地震発生後20~50分で北海道及び三陸の沿岸に到達したが、大潮の干潮時とチリ地震津波以降の防潮堤などの整備で陸上では被害はほとんどなかった。
〔建物の被害状況〕コンクリート造は、柱はせん断で破壊。鉄骨造りは、桁行方向の筋違いの切断、挫屈。木造は、震動被害は、十和田市・五戸町などの地盤の軟弱地域、土砂崩れ・地盤沈下・地割れなどの被害は、三戸町・八戸市・五戸町周辺・むつ市など。組積造は、古い煉瓦造、石造で、大破壊したものが八戸市・函館市などで見られた。
〔火災の発生状況〕火災の発生は、時期、時刻の関係で多くはなかったが、火災の原因は、石油ストーブの転倒が圧倒的に多かった。
この地震により昭和44年4月「地震予知連絡会」の設置、昭和46年建築基準法「鉄筋コンクリート構造計算」などが改正された。
(雑誌「近代消防」昭和43年7月号より 抜粋)
5月13日 福山市・ホテルプリンス火災
〔被害状況〕平成24年5月13日6時58分覚知、焼損鉄筋コンクリート造4階建及び木造2階建延面積1,361平米、全焼、木造2階建、店舗兼住宅半焼、死者7人、負傷者3人
〔発生状況〕2階の清掃から戻った従業員が事務所のドアを開けたところ、事務所内に黒煙と炎を確認した。事務所から出火した火災は、木造部分の天井面を燃え抜けて2階のリネン室に延焼したほか、天井の配管貫通部から2階のパイプスペース内に延焼した。また、事務所から炊事場に延焼し、炊事場から木造部分の天井面を燃え抜けて2階客室に延焼した。
さらに、階段部分は防火区画(竪穴区画)がなく、発生した炎や煙は上階に拡大し、煙は廊下を経由して各客室に流入した。
火災発生時宿泊客は13人で、2階耐火建物部分に宿泊していた9人のうち、3人が避難し、1人が救助され、5人が死亡。2階木造部分に宿泊していた1人は避難。また、3階耐火建物部分に宿泊していた3人のうち1人が避難、2人が死亡した。
通報は、通行中のタクシーの運転手がタクシー会社に連絡し当該会社から通報されている。
〔問題点・教訓〕この建物は、昭和35年に木造2階建が建築され、昭和43年に別棟として鉄骨コンクリート造4階建が建築され、昭和49年に接続して、その後木造1階を車庫にして2階への階段を撤去した違法建築物であったこと。
また、階段部分の防火区画が設けられていなかったことから、階段を経由して火炎や煙が上階に拡散、煙が客室に流入したこと。
自動火災報知設備の受信機が2つの系統に分かれており一斉鳴動したか考えにくいこと。
初期消火活動が行われず、また、避難誘導も行われなかったこと。
〔法令改正〕自動火災報知設備のホテル・旅館(延べ面積300m2未満)への設置義務化、表示マークの申請による交付制度の実施。
4月26日 旧ソ連ウクライナ共和国・
チェルノブイリ原子力発電所爆発事故
〔発生状況〕1986年(昭和61年)4月26日(土)発電所4号機(出力100万キロワット)が、慣性運転の実験中に大爆発事故を起こし、ウクライナ、ベラルーシ、ロシア等を含む世界各国に、3億キュリーに及ぶ放射能汚染を惹き起こした。
〔被害状況〕死亡者28人(急性被曝により事故後3カ月以内の死亡者のみ)、多数の急性被爆者、さらに半径30キロ圏内の住民や北西約100キロ圏内の高濃度汚染区域の住民約40万人が避難を強いられた。
〔火災の状況〕4号機は、運転員の実験操作ミスで暴走し爆発した。その際に、炉心の減速材の黒鉛や核燃料等が燃え、火災が発生したが、爆発直後に出動した消防隊によって、炉心及び発電機建屋等で発生した火災は、一応消火されたのである。
しかし、炉心が再び赤々と燃えだしたのは爆発当日の夕方からであるから、再燃火災であったことに他ならない。もし、現場の消防隊等が消火後も炉心の挙動を注意深く監視し続け、再燃火災発生の初期に、直ちに大量の放水を行っていたら、あるいは炉心の完全消火に成功していたかも知れない。しかし、炉心が再燃するなど誰も考えず放置したため、大量の黒鉛に着火し再び火勢が強まりだしたころには手をつけられず、放水による消火は断念せざるを得なかった。
ソ連当局(当時)は、苦し紛れに砂、コンクリート、鉛、ホウ砂等をヘリで上空から投下し、密閉消火しようとした。しかし、結果的に誤った消火方法であった。
周囲を密閉された炉心では熱の逃げ場がなくなり、火勢が強まるとともに、放射能を帯びたこれらの粉塵や死の灰が、7、8千mの上空に舞い上がって、西ないし北西の風に乗って地球を回り始めた。
〔日本〕平成7年高速増殖炉「もんじゅ」ナトリウム漏洩事故、平成9年旧動燃・使用済み核燃料再処理工場施設火災、平成11年JOCウラン加工施設臨界事故、平成23年東京電力福島第一原子力発電所事故(東日本大震災の津波により非常電源喪失による冷却水の停止、原子炉建屋の水素爆発、火災や放射性物質が外部に放出された。)
(近代消防ブックレット No18「チェルノブイリ原発事故20年、日本の消防は何を学んだか?」森本 宏著より抜粋。)
4月11日 鹿児島市・花火製造所爆発火災
〔発生状況〕平成15年4月11日13時27分頃爆発、覚知13時30分、鎮火13時56分。
〔被害状況〕人的被害 死者10人、負傷者(従業員2人、住民2人)。物的被害 建物 全損8棟、半損1棟、小損22棟、工作物2、車両24台。
〔爆発火災の状況〕発生場所は、鹿児島市街地から西方約5キロの位置にある花火製造工場で、同敷地西側の配合所、原料庫(屋内製造所)付近において何らかの理由で爆発が起こり、敷地内や周辺の広範囲にわたり被害を受けた。
爆発の原因は、出火箇所付近の建物5棟は、爆発によりほとんどが原形を留めていない状態であることから物証が乏しく、また、爆発箇所付近で作業をしていた関係者10人が全員死亡していることから証言が得られず、原因の究明は困難を呈している。
〔活動内容〕13時30分火災を覚知し第1出動指令及び34分第2出動指令、40分現場到着 情報収集、消火活動及び検索実施。43分救急応援指令、54分鎮圧状態、各分隊検索指示、56分鎮圧。
14時7分 6人の社会死状態を確認。以後検索活動は13日まで続く。
〔爆発火災の教訓と対策〕早期情報の的確な収集により、早期に災害規模をとらえ、これに即応する活動部隊編成や指揮体制、統率ある現場活動を展開する必要がある。
事故施設そのものの警備活動に加え、周辺の一般住宅等への警戒や広報、避難措置など広範囲な消防警備を行うとともに、残存火薬類の把握や広範囲の消防警戒区域の設定など二次災害の防止対策を図ることが必要である。
(近代消防平成15年(03年)9月号「鹿児島市消防局の火災の概要」より抜粋。)
4月3日 千葉県市原市
極東石油タンク火災
〔発生状況〕昭和52年4月3日20時40分頃、製油所構内のタンクから出火、覚知20時58分、鎮火22時47分。
〔被害状況〕人的被害なし、貯蔵油約1,300リットル焼失、タンク側板上部約3m以内一部変形、屋根板波打ち及びポンツーン一部破裂など。
〔発見状況〕隣接事業所の自衛消防隊員が1回目の爆発音を聞き、時間を確認した。20時45分、自衛消防隊員が2回目の爆発音と火柱を確認したが、タンクの影であったため自社の火災か不明であったため偵察出動した。48分タンクの火災を発見した。
〔活動内容〕20時50分 2号車タンクの冷却放水を開始。55分 3号 400L型ノズルでタンク内に放射。周辺タンクの固定散水設備を作動させ冷却を行う。
20時58分 本部覚知、特殊火災第1出動を指令。21時00分 固定泡消火設備泡放出。03分 自衛2号車400L型泡ノズルで放射開始。05分 先着の消防の化学車、重化学車、ポンプ車正門到着。10分先に進入した重化学車、双口消火栓に水利部署し2線延長。12分 装甲化学車、大型高所放水車、ポンプ車など現場到着、このときの火災の状況は、2~3mの火炎が、タンク側板上部に時々見え、黒煙が上っている程度であった。17分 大型高所放水車が泡水溶液3線の中継を受け、泡放水開始。
47分 火勢が衰えたので、タンクの上部より確認、泡のないところ及びゲージポールから時々小さな火を噴いていた。タンク上部から400L型ノズルでシール部に発泡。22時07分 鎮圧。今回のタンク火災は、タンクの高さが14mと低い、フローティングルーフタンクだった。コーンルーフで爆発したら天蓋が飛び、全面火災で防御は長時間を要したと思われる。また、フロートが沈没しなかったことも幸いし、リング火災状態であったから火力が弱く、タンク近くで作業ができた。
(目で見る警防作戦 坂本正著より抜粋。)
3月25日 石川県・能登半島地震
〔発生状況〕平成19年(2007年)3月25日9時42分、能登半島西部を震源とするM6.9地震が発生、震源の深さは約11キロと、やや浅い地震であった。
〔被害状況〕七尾市、輪島市、穴水町で震度6強、志賀町、中能登町、能都町で震度6弱、珠洲市で震度5強、石川県下、富山市、新潟県刈羽村で震度5弱を観測した。
被害は、死者1人、負傷者356人、住家の全壊684棟、半壊1,733棟、一部破損26,935棟
〔被害内容〕この地震は、「横ずれを伴った逆断層型の地震」で、断層面は、ほぼ北東~南西の向きに、長さ約2キロ、幅約14キロにわたって、北西から南東に傾き下がる、右横ずれを伴う逆断層と推定された。この断層面に沿って、南東側の地塊が北西側に対して、約1.4m乗り上げたとみられている。震源地のほぼ半分が海底下であったため、沿岸を中心に津波注意報が発表されたが 20センチ前後の水位変化が見られただけだった。
輪島市門前町では、震源の浅い直下地震に見舞われたため多数の家屋が倒壊した。半島の西海岸で日本海に注ぐ八ヶ川下流の沖積地にあたったため、地盤が軟弱であり、被害を拡大したものとみられている。
倒壊家屋の中には、完全に潰れて瓦屋根だけが地上に伏せっているものも多くみられたが、比較的新しい民家にはほとんど被害が見られなかった。また、北陸の積雪地域であるため、家屋の柱や梁が、伝統的に太く頑丈に造られていたためと考えられる。
(「平成の地震・火山災害」(伊藤和明著より抜粋)近代消防社 刊)
3月20日 群馬県水上町・上越新幹線
大清水トンネル工事現場火災
〔被害状況〕昭和57年(1979年)3月20日21時40分頃出火、覚知21日0時01分、死者16人、負傷1人。
〔発生状況〕夜間班の作業員が、掘削用大型架台の解体に、酸素溶断機を使用しボルトの溶断作業を行っていた際、発生した火花や溶断片が架台上段から中段に落下し、これが火源となって中段中央付近に堆積していたおがくず及び油、ずり等の入りまじった可燃物に着火。
ところが作業員以外に監視員を置いていなかったので、次第に火勢を強め、発見した者が麻袋で叩いても消えず、さらに消火器を集めて消そうとしたがいずれも作動せず、このため拡大した火はアセチレンボンベなどに燃え移るとともに、新潟県側から吹いていた強風にあおられ坑壁の矢板等に次々と延焼し、群馬県側に向けて約300mに渡り、本架台、重機、風管、軌道等の諸設備を焼くとともに、発生した多量の黒煙及び一酸化炭素が坑道内に充満したため、作業中の50数名のうち14名が焼死するという悲惨な事故となった。
〔活動状況〕大清水トンネルは、谷川連峰の真下約1,300mをくり抜く上越新幹線トンネルで、昭和54年1月に開通した。掘削用大型架台の解体作業中に火災は発生した。
消防隊の活動状況は、弊社発行の「なぜ、人のために命を賭けるのか」中澤昭著に、当時の活動状況や隊員の心情が綴られていますので、ぜひご覧ください。
(「なぜ、人のために命を賭けるのか」(中澤昭著より抜粋)近代消防社 刊)
3月7日 京都府・北丹後地震
〔発生状況〕昭和2年(1927年)3月7日16時27分、京都府の北部丹後半島の付け根付近を震源とするM7.3地震が発生。
〔被害状況〕網野町・峰山町・山田町(現・京丹後市)などで被害が大きく、家屋の倒壊率は70~90%に達した。この年は降雪も多かったため3月初旬になっても、まだ1mほどの根雪になっていた。激しい揺れに雪の重みも加わって、全壊した家屋は約1万3,000戸。死者2,912人。
〔被害内容〕本地震は、関東大震災の4年後、また、2年前の5月23日にはすぐ西に隣接する兵庫県北部の北但馬地域で、M6.8の北但馬地震が発生している。
地震による被害は、北近畿を中心に、中国・四国地方にまでおよんだが、被害が集中したのは、丹後半島の付け根にあたる約15キロの範囲であった。地震の発生が夕食の準備の時間と重なったことから、各地で火災が発生。城之崎町では、2,300戸、峰山町、網野町、与謝野町では大火となり約8,300戸が焼失した。
ほとんどの家庭が全壊又は全焼した峰山町では、人口に対する死亡率は22%に達した。そのほかの村でも、市場村で12.2%、吉原村で10.1%、島津村で8.2%の死亡率とされている。
この地震による被害は広範囲に及び、震源地から約150キロ以上離れた米子市でも、2戸の倒壊家屋がでた。淡路島では土塀が崩落し、大阪市内でも、地割れから泥水が噴き出し家屋に浸水被害が出た。
北丹後地震では、2つの地震断層が地表に出現した。これら2つの断層は、お互いに直交する「共範(きょうやく)断層」であった。郷村断層は、北北西~南南東に延びる長さ18キロの部分が動き、西側が最大80センチ隆起した。水平では、最大で2m70cm左ずれを生じた。
山田断層は、直角に走る長さ7キロの断層で、北側が最大約70cm隆起し、右横ずれの変位が、最大80cmに達した。
歴史的にも、地表に地震断層が出現する地震は、圧倒的に中部以西に多い、内陸直下の地震は、震源が浅いため、地表は激甚な揺れに見舞われ、大災害となった。
(災害史探訪 内陸直下地震編(伊藤和明著より抜粋)近代消防社 刊)
2月18日 韓国大邱(テグ)市・地下鉄火災
〔被害状況〕出火 平成15(2003)年2月18日9時53分(推定)、覚知9時54分、鎮火13時38分。出火場所 大邱市地下鉄1号線 中央路駅構内(地下3階部分)の列車1両目車内放火。被害 死者198人、負傷者145人、客車12両(6両編成2列車)全焼
〔発生状況〕中央路駅に到着した列車の先頭車両に乗っていた男性が、筒に入ったガソリン約2リットルにライターで着火。瞬く間に客車6両を焼失させ、一方、出火約4分後に反対側に列車が到着。火災による停電等のため運行ができなくなり延焼拡大した。
〔活動状況〕消防隊の到着時「地下鉄出入口で濃煙が噴出している状態で、濃煙の中、避難者の一部が自力で出口から出てきていた。人々の「助けて」という悲鳴とともに、死傷者が多数倒れていることが判ったため、救急・救助活動を優先して実施し、人命・救助後放水鎮火に臨んだ。」
活動においては、構内に濃煙と熱気が充満しているため呼吸保護具なくして進入が不可能で、特に地階が深く(地上から乗降場まで約160m)階段構造が複雑であり、視界が確保できない濃煙の中での進入及び活動は困難を極めた。
〔被害拡大の要因〕
(1) 放火直後に火災が急速に拡大し、内装材等から煙と燃焼性ガスが大量に発生した。
(2) 火災の初期から地下2階、地下1階へ煙が上昇し、昇降場(地下3階)の乗客等は階段を使い避難したが、地上まで避難できず救助されるものが多数発生した。
(3) 車両の窓ガラスがゴムのみで固定されていたため、熱でゴムが溶け、窓から火煙が吹き出した。
(4) 対向車が火災発生後到着、停車、扉を開閉した後、出発を試みるも停電で動けず当列車に延焼した。
2月11日 北海道
ニセコスキー場ホテル火災
〔被害状況〕昭和54年2月11日 出火3時0分頃、覚知3時13分。気象条件 天候 吹雪、南西の風3.7m/s(15m/s位の突風あり)、気温2.6度、湿度82%。損害 防火造2階建11,886.43平米全焼。
〔現場状況〕倶知安町市街地よりニセコ高原ひらふ線の急坂を登りつめた標高550mに所在、周囲は切り立った急斜面の上方左右がゲレンデで、消防署から現場までの距離が9キロ。
〔発生状況〕出火原因は、ホテル付属建物レイトハウス2階スナックでプロパンガスが漏れ、冷蔵庫のスパークで着火、爆発したものと推定。
当日は連休初日で宿泊客140名で満員であった。3時0分頃プロパンガスの爆発と前後して自火報ベルが作動、ほとんどの客が目を覚まし、混乱の中で従業員10名はそれぞれ持ち場についた。館内放送、避難誘導、応急消火に専念してしまって、通報は大幅に遅れた。
〔活動状況〕先着隊の判断では、到着時火元棟で消し止め得ると思ったが、通報の遅れで到着時には、本館と結ぶ渡り廊下が煙突の役割をして、一挙に本館へ延焼し、すでに全焼となっていた。
今回は、道路は除雪され自動車の走行が少ない深夜だったので比較的スムーズに行動されたようだ。先着隊は水槽車でホース4本を延長して放水、続いた2号車、2分団車の連合送水は、700m下方の湧水池から中継、坂道や積雪のため、ホース延長に時間と労力を要したようであるが、もしこれがなかったら、先着の水槽車は3分前後で防御不能に陥っただろう。
たまたま宿泊していた消防職員は、自火報の操作盤で発報場所を確認すると共に現場に駆けつけると従業員が初期消火中であったが、火災が拡大すると判断し、フロントに引き返し避難の放送をさせた。この火点を確認したこと、避難の必要性を判断した2点は非常に大切なこととしてあげられる。
(目で見る警防作戦 坂本正著より抜粋。)
2月6日 横浜市・異常乾燥時の火災
〔被害状況〕昭和56年2月6日07時36分、覚知07時44分。気象状況 晴、北の風 風速3.9m/s、湿度39%実効湿度43% 異常乾燥注意報発令中。
防火造2階建66.35平米全焼、耐火造地下1階・地上2階2,862平米の内410平米焼失、耐火造3階建549平米の内60平米焼失、耐火造5階建1,317平米の内1,047.7平米焼失。
〔発生状況〕現場は、伊勢佐木町通りと若葉町通りに囲まれた街区、地形は平坦で、映画館、ボーリング場、銀行、スーパーマーケット、その他の複合用途ビルなどが建ち並ぶ大きな繁華街である。通報は、近くの定員が、バーの2階付近から火煙が噴出しているのを発見、119番で通報した。
〔活動状況〕先着隊は、覚知2分後に現場到着。街区内の火災判断し、進行方向の火点手前角の消火栓に水利部署した。到着時、伊勢佐木ビル裏側一体は黒煙が濃く、火災は渦を巻き上げ、火点は火災最盛期の状態で四周に延焼中であった。7名乗車を活用し3線、ホース4本延長。1線は火点北側、防火造2階建に進入、よく延焼を阻止した要点である。1線は、盛んに延焼中の隣接の5階建ビルの北側にある内階段から2階に進入。他の1線は、日活会館屋上において延焼防止にあたり、残りの人員で、日活会館のサイヤミンズを利用して防御にあたった。
第2着隊は、火点直前の消火栓に部署して同時に2線延長。第4伊勢ビル東側より2階に進入。他の1線は、西側で火点からの延焼を阻止する。
この火災が、外周に向かって簡単に延焼していった点は、建物の配列と気象状況に相関がある。が、ほかにも重要な根本問題が潜在している。それは、土地の効率的な利用により、耐火構造の建物が木造街区内にどんどん建築され、混合街区に変化した。しかも、建ぺい率は木造と同様に少ないから、接火、輻射等により、いくらでも延焼する。
(目で見る警防作戦 坂本正著より抜粋。)
1月20日 兵庫県宝塚市
カラオケボックス「ビート」火災
〔被害状況〕平成19年1月20日18時30分頃出火、覚知18時35分。死者3人、負傷者5人 焼損:鉄骨造2階建、延面積198.8平米の内99.3平米
〔発生状況〕カラオケ店のアルバイト従業員が1階調理場で、客から注文のチキンナゲットを揚げるため揚げ物用の鍋に油を入れてガスコンロで加熱したまま、その場を離れドリンク厨房でグラスを洗っていた。15分ぐらいして、「ベコッ」という音が調理場から聞こえたので調理場を見ると、鍋から15センチから20センチぐらい火が上がっていた。
従業員は、消火器の使い方を知らなかったため、1階の客室でカラオケを楽しんでいた常連客に助けを求めに行った。
〔活動状況〕従業員から火災を知らされた客は、店内の消火器で消火するため、消火器を調理場の奥の炎に向けレバーを握ったが、ゴホゴホ音が出るだけで何も噴射されなかった。
出火時、1・2階に客、従業員合わせて18人が在店していたが、避難誘導はされなかった。
この火災の第1通報者は、出火建物1階の客室でカラオケを楽しんでいた女性客からであった。この火災についての通報は6報あったが、そのうちの1報は、女子中学生4人のグループから助けを求める通報で、通報により指令管制員の指示を守り、煙を吸わないよう低い姿勢を守ったため比較的軽微な負傷で救助されている。
当建物は、当初倉庫兼事務所として届けられたが、所有者は無断で、カラオケボックスに改装していた。また、用途変更した際、防音のため窓を板でふさぎ、消火器1本を1階に設置したのみで、警報設備、避難器具等は設置されていなかった。
(雑誌「近代消防」より抜粋)
1月12日 滋賀県甲西町
東洋ガラス倉庫火災
〔被害状況〕昭和55年1月12日20時50分頃出火、覚知21時03分。損害 倉庫部分47,519平米全焼、類焼2棟352平米。人的被害なし
〔発生状況〕この火災は段ボールからの出火を早期に発見し、発見者は初期消火をしたが効果がなく、火事だと叫びながら電話機に駆けつけ、119番通報をしている。付近の従業員数名も消火器により段ボールの消火に努めたが、周囲に延焼し、濃煙と火勢が強く消火困難となり、消火栓のホースを延長して防御にあたるも、高く積まれた段ボールの荷崩れと急激な延焼速度のため避難している。
〔活動状況〕覚知した消防署は、第1出動で3隊、消防団は第1出動で7隊出動した。その後第2出動及び特命出動が指令され、ポンプ自動車37隊、稼働ポンプ49隊が出動した。先着隊長の判断は正しかったのであるが、1棟建の間仕切りのない大建築であったため濃煙熱気の充満のほうが早く、40m位内部進入したところで転戦の止むなきに至り、その他第1出動の各隊も協力して倉庫から工場方面への延焼防止にあたった。
注水は、大建築物のため中心に届かなかったようだが、第2出動以降の部隊を利用して放水銃等を利用し、大量放水をした。
この建物は、倉庫と工場を兼ねていたから、特に可燃物が多く、荷崩れ等から進入は困難を極めた。工場の背面には、LPG、灯油、重油、原料タンクが多数林立しており、工場へ延焼すれば油類等の危険物火災はもちろんLPGの爆発危険も潜在したが、指揮本部の判断は正しく、防御を倉庫と工場の境界線におき、延焼防止に成功したのである。
(目で見る警防作戦 坂本正著より抜粋)
1月2日 和歌山市・旅館寿司由楼火災
〔被害状況〕昭和46年1月2日1時03分頃出火、覚知1時20分。損害 死者16人、負傷者15人、木造瓦葺き一部鉄筋鉄骨防火造及び耐火構造、全焼3,013平米
〔発生状況〕1時15分頃防火管理者が、物音で目を覚まし、廊下に出てみると階段付近にある物置付近から火煙が出ているのを発見して通報。新館1階及び2階の宿泊客に連絡、3階、4階の宿泊客には連絡できなかった。
〔活動状況〕惨事が起きた新和歌浦は、和歌山市の中心から車で30分ほどの和歌浦湾を望む観光地で、海岸沿いを中心に29軒の旅館がある。
覚知が1時20分、南消防署から現場まで約2.5キロ、現地到着まで5~6分しか係っていない。先着2隊が到着した時点で旧館2階から火炎が吹き出し、すでに中期の状況を示していた。これではとても人命検索は無理と思われたが、旅館だけにあえて1隊を人命検索にあて、東側の個人宅の屋根上で救助を求めている3人とベランダに倒れていた1人を救助した。
この頃、旧館は炎上しており、新館及び両側の土産物店食堂にも延焼中であった。間もなく旧館全面のモルタルが倒壊、覚知から20数分で旧館の棟が焼け落ちた。
消防水利だが、先着隊が消火栓から水利をとって間もなく水利不足になり、1線延長で放水している。他部隊は、貯水槽、プール等からほか約300m離れたヨットハーバーに到着した車両によりホース23本~28本を要する中継送水を受けながら防御にあたった。出動車両のすべてを防御に活用できず、木造建物が密集し、起伏の大きい地形、くわえて、海辺への消防車の進入は不可能での防御活動であった。
有馬温泉火災、磐光ホテル火災などを教訓に昭和44年3月消防法施行令が改正され、火災の早期発見、早期通報を図るため、既存の旅館・ホテル等であっても自動火災報知設備の設置が義務付けられたが、執行猶予期間が2年あり、寿司吉楼は1月10日から設備工事に入る予定であった。
(消防白書、近代消防46年3月号(N094)より抜粋)
12月26日 栃木県・宇都宮市
十字屋デパート火災
〔被害状況〕昭和46年12月26日 夜半の出火、覚知時間1時58分専用電話、被害状況 鉄筋コンクリート造 地下1階地上4階建て建築面積1,445平米、延べ面積6,803平米のうち4階階段室、売場の一部及び屋上塔屋部分約230平米焼損
〔発生状況〕年末の大売り出し中で、日中は多くの来客があったが、閉店後のことで社員も帰宅した後、警備員2名が警備をしていた。午後7時40分、8時30分、9時、11時と4度の巡回を行っているが、その際は異常を発見していない。A階段は9時の巡回だけで、後はB階段しか通っていない。
午前0時40分頃、1階の警備室近くまでこげる臭いがしたので原因を調べに4階まで上がり、そこですき間から臭いと煙が出ているのを発見した。
〔その後の対応〕警備員はボイラー室と思ったのか、ボイラーの保守会社へ連絡に出かけるとともに店長やその他の幹部に内容を報告した。そのうち通行人が「4階から煙が出ている。火事ではないか。」と知らせるとともに、1時58分119番通報をしている。
指令室では直ちに十字屋へ電話を入れ確認のため照会すると「火事ではなく、機械室の故障です。」とのことであったが、調査出動のため無線車を現場に向かわせた。
その後、百貨店から「火事です。」という119番通報(2時3分)が追いかけるように入り、直ちに消防隊が第2出動した。警備員が異常を認めてから約1時間半近くを経過してのことである。
〔活動状況〕消防隊は水損防止のため、はしご車1台による放水のほか、スプリンクラー放水及び屋内消火栓放水によって消火した。屋内消火栓を併用したため受水槽の水源は約30分でなくなり、後は消防車から補給送水を実施した。鎮火は3時20分。
〔出火場所の状況〕出火場所は、階段室のシャッターで閉鎖された内部と想定されているが原因は不明である。階段室内には棚が設けてあった。シャッターの売場側には商品のじゅうたんがもたれかけてあった。火点がシャッターに近接していたため炎でシャッターが過熱し、売場側のじゅうたんに燃え移ったものである。
しかし、スプリンクラーの作動は実に正確であって、火熱部分のヘッドは着実に作動して火炎を阻止している。そのため焼損は、4階の一部と屋上の塔屋部分の230平米の部分焼にとどまったものである。
(昭和47年版消防白書、用途別消防・建築法規のドッキング講座 高木任之著より抜粋)
12月18日 福島県会津若松市
東山温泉丸井荘火災
〔被害状況〕昭和52年12月18日4時57分頃出火、覚知4時59分、鎮火6時45分。損害 建物1棟全焼1,766平米、死者4人、負傷11人
〔発生状況〕東山温泉は、会津若松市の東南東約4キロほどの地点に位置する温泉街で、温泉の中心部は湯川渓谷を挟んで両側に旅館が建ち並んでいる。
温泉街の火災危険はまず立地によって定まる。自然の景観を求めて川・海・渓谷などに面しており、発災時の消防隊の進入が困難な場所が極めて多い。
自火報のベルの音がするので、玄関ロビーに出て帳場の受信機を見ると2階部分が火災表示となっていたので、妻に消防署に連絡するように指示してから、2階に行くと「○○室」から火が吹き出しているのを階段のところで確認した。
従業員等4人が消火器で消火しようとしたが、吹き出す炎に全く歯が立たなかった。
〔活動状況〕消防隊が現地に到着時、丸井荘の旧館2階全面から火炎が吹き出しており、1階及び3階にも延焼中であった。一方、新館2階部分にも火が回り、全館から黒煙と火炎が猛烈に吹き出している状況だった。
宿泊客の避難状況を確認したが、不明者がいる模様との報告を受けた。ただちに、1個小隊7人で救助隊を編制。屋外避難階段から新館3階へ屋内進入をし、部屋前の廊下の窓際に倒れていた男1名を発見救出した。その後も、猛煙と熱気に阻まれながらも検索活動を継続したが、発見できなかった。
第1出動の消防隊の活動状況は、消4隊は丸井荘南路上に部署、ホースを2線延長。1口を新館室内に進入、もう1口を北隣旅館への延焼防止にあたった。
消1隊は、現場から約120メートル離れた湯川に水利部署、ホース7本を延長して消4隊に補水、さらに消4隊からホース2線を延ばし、一口は旧館に注水、もう一口は火元への注水と隣接旅館への延焼防止にあたった。
第1出動の活動は、予想以上の火の廻りの速さと、周囲の建物の状況等の悪条件が重なって延焼防止活動に苦慮した。
(目で見る 警防作戦 坂本 正より抜粋)
12月9日 札幌市・LPG地下タンク火災
〔被害状況〕昭和55年12月9日3時58分頃出火、覚知4時03分、鎮火15時30分。損害 傷者2人、液化石油ガス約8トン焼失、キャービー、計量機等
〔発生状況〕オートガスステーションに設備されている緊急遮断弁の油圧機構にオイル漏れがあり緊急時以外において遮断弁が作動し営業上支障をきたしていることから、変更許可申請を行い許可となり、工事に取りかかった。
オートガスステーションの営業が終了後、23時30分作業員が各バルブの閉鎖、機械室内等の残液を容器に抜き取り回収を行い、機械室内の緊急遮断弁を外した。
1号タンクの緊急遮断弁の取り付けを終え、2号タンクの取り付け作業にかかったが、遮断弁が長いことから手動式カッターで切断後、仮止めし電気溶接を行っている。溶接をしていた時漏洩した液化プロパンガスに引火し火災に至ったものである。
〔活動状況〕消防隊到着時の状況は、地下タンクのマンホールより噴出している火炎は、約10メートルの高さに達していた。ガソリンスタンドも併設され危険も大きく先着隊長は、特別出動を要請、東側に隣接している延焼危険の大きい耐火造3階建の事務所への注水と水噴霧による囲い込み注水を行っている。この囲い込みは、比重の重いLPGの場合は、ガスを噴霧により拡散希釈する効果と、低所や横に流れるガスを防止する作用が働く。
また、警察官に対し半径200メートルの主要道路を交通遮断するよう依頼、消防警戒区域を設定した。
署長現場到着と同時に現場指揮本部を設置し、警察官、工事関係者と消火手段及び住民の避難の必要性に協議する。
4時35分、工事責任者より、ガス閉鎖バルブの使用が可能かも知れないので一時消火できないかとの要請があったが、バルブが焼損して閉鎖不能の場合は、流出する生ガスが拡大するため危険と判断し、周囲の延焼防止に重点を置くように指示した。二者択一を迫られた場合の最も正しい判断といえる。
その後、隊員の安全管理及び疲労軽減のため放水砲2基、放水銃1基、その他のノズルは器具に固定して無人放水の体制を整えた。
(目で見る 警防作戦 坂本 正より抜粋)
11月28日 京浜港川崎区第2区水面
空船タンカー爆発火災 ―ていむず丸―
〔発生状況〕昭和45年11月28日15時18分、京浜港川崎区第2区水面 鶴見灯台から1海里沖 大型タンカー42,746トン、クリーニング中爆破炎上 鎮火 29日3時38分
〔被害状況〕死者4人、重傷者7人、中・軽傷者17人。 第4・第5空油槽爆発破損、全通甲板施設破損、船橋部分(操舵室、クルーデッキ等)全焼
〔出動部隊〕海上保安庁、消防船16隻、航空機1機。東京・川崎・横浜消防各2隻、作業船7隻、曳舟8隻
〔発生状況〕ていむず丸は、原油の陸揚げが終わり発災地に移動し、27日11時30分から定期検査準備のため空タンクのクリーニングを開始した。1番~4番を終わり、翌28日5番タンクをクリーニング中に爆発が発生した。
爆発により、厚さ22ミリのタンク上甲板は、長さ80メートルに渡って前方にめくり上がり、タンク内の残存原油が火災となり瞬時に多数の死傷者が発生した。
〔活動状況等〕出動した川崎市消防局の消防艇2隻、15時50分現場に到着左舷より冷却放水を開始、爆発船槽は、残り油とスラッジが盛んに燃焼し猛烈に黒煙を噴き上げている。16時00分横浜市消防局の消防艇2隻が到着、冷却放水開始。15分保安庁の消防艇到着、燃焼船槽内に泡放射及び上甲板の冷却放水開始。左舷川崎・横浜、右舷保安庁担当、包囲態勢が整い防御したが、居住区域の火勢が激しくなったので保安庁より東京消防庁に応援要請する。
保安庁の指揮者は、この状態では時間を空費するのみと判断し、放水を一時停止し内部偵察員を派遣したが、小爆発が数回あり、船内不可能のためやむなく引き揚げた。直後船橋の格開口部より一斉に火炎が吹き出した。
再び偵察員を派遣することになった。保安庁の偵察員は、ていむず丸の甲板からぶら下がっていた非常用金属折りたたみはしごを利用、ホース3線を延長する。一方、強い波浪の中東消の消防艇からも達着に成功した。
達着後、空気呼吸器、照明機材、ホースを引揚げ、2線延長し計5口で防御体制をとった。その後、1階は、エンジンルームで、6,000キロリットルの燃料重油・各種のボンベ・爆発で飛散した機械類があり、2階からの火勢は延焼寸前であったがこれを阻止し、順次、船橋内の消火をすすめ出火から12時間20分後鎮火できた。
(目で見る警防作戦 坂本 正著より抜粋))
11月20日 栃木県
川治プリンスホテル雅苑火災
〔被害状況〕昭和55年11月20日15時15分頃と推定、覚知時間15時34分、被害状況 死者45人、負傷者22人。損害 鉄骨木造4階建、延べ面積3,582平米、1棟 全焼
〔発生状況〕同日、自動火災報知設備の工事が終わり発報テストが終わったのが14時30分頃、15時15分頃自火報のベルが鳴ったが、従業員は、最初ベルの鳴った意味がわからないようであった。第一発見者K氏は、露天風呂の撤去作業をしていたのですぐに現場を見に行ったが、異常がないがベルが続くので、再びH氏と見たが異常はなかった。しかし、屋外に青い煙を確認した。
〔活動状況〕出火を覚知し、消防隊が現場到着、各隊がホースを延長し屋内進入しようとした時点では、火点西側1階部分より火煙が猛烈に噴出していた。このときすでに3~4階の室内は延焼がはじまり、濃煙熱気は建物の大部分に拡大していたと思われる。防火区画の少ない建物は時間的に見て、初期の注水による延焼阻止は不可であったと判断できる。
救助隊の現場到着時には建物全体から噴煙し、各所からも火炎が見えた。直ちに玄関から50メートルほど進入したところの内階段から2階に登ったが、天井からの落下物と濃煙熱気のため後退、屋外階段から3階まで登ったがこれも後退し、救出ができなかった。
外部においては延焼防止に努め、後着の消防団は、男鹿川に部署、包囲的に大量注水、18時45分鎮火させたが、高さが水面から建物まで約20メートル、しかも30度余りの急斜面でホース延長、防御行動に困難を極めている。
〈防火管理上の問題点〉
(1)防火管理者の未選任、消防計画の未作成、従業員に対する各種教育の未実施等防火管理体制がずさんであった。
(2)自動火災報知設備のベルが鳴動したにもかかわらず、宿泊客等に対する適切な連絡通報が成されず、従業員による宿泊客に対する避難誘導がほとんど行われなかった。
(3)数次にわたる増改築が行われ、鉄骨造、木造等が混在する建築物となっていたが、防火区画がなされていなかったため、延焼速度及び煙の拡散速度を速めた。
11月9日 東京湾
LPGタンカー衝突火災
〔被害状況〕昭和49年11月9日13時38分出火、鎮火11月28日18時48分、第10雄洋丸の沈没時間を持って鎮火。損害 第10雄洋丸 積載貨物、ナフサ20,500トン、ブタン6,400トン、LPG20,200トン全焼、撃沈。パシックアリス号、全焼。死者16人。
〔発生状況〕東京湾中ノ瀬第7号ブイ付近で発生したタンカー衝突事故を海上保安庁より情報として覚知する。東京消防庁、15時50分大型消防艇3艦に対し、船舶火災特別応援命令が発令された。
17時50分現場付近に到着、海上保安庁より無線機を受領し、海上保安庁まつなみと交信可能となる。川崎市消防局1艦、横浜市消防局2艦に無線共通波切替の通報、「みやこどり」が基地局になり海上保安庁との連絡にあたる。
〔活動状況〕16時過ぎ頃の状況、中央より船尾において炎上中、雄洋丸は左舷に15度傾く。
19時49分、消防艇は、いずれも被災船に達着できず消火の見通しもなく、引揚げの連絡入る。
中ノ瀬航路の北端で発災した両船は、潮に流され同航路の南側に達したため、パシックアリス号を燃焼中のまま木更津湾沖まで夜間に曳航する。翌10日7時00分船内に生存者ある模様との情報を入手した。3艦が出動9時20分現場に到着、保安庁と協議、防御態勢をとり船内に突入する。棒状・噴霧注水を併用するに熱気と水蒸気のため人命検索も思うに任せず。悪戦苦闘4時間残火処理の見通しがたったころより、船内通路・デッキ・調理室等から16名の焼死体を発見した。
火災発生以来、消防艇の接げんも許さず爆発を繰り返し続けている第10雄洋丸は、このまま放置すれば船舶の航行に支障が出るため、20日再び曳航して太平洋に出る。翌21日爆発危険が大きく、曳航を断念、自然鎮火を待つも鎮火の見通しはなく、沈没することに決定。
28日海上自衛隊の護衛艦により砲撃、全弾命中するも燃え続ける。航空機によりロケット弾、続いて潜水艦より魚雷を発射。この共同作戦によって、18時過ぎ船体は2つに折れ、300メートルに近い炎を夜空に吹き上げ、犬吠埼の東南東約530キロ、水深約6,000メートルの太平洋に消えていった。
発炎してから19日、大火災もようやく鎮火、これも一つの火災防御である。ドーバ海峡におけるシリーキャニオン号の場合は、英国海軍が同じような方法で処理をしており、その例は他にもある。
(目で見る 警防作戦 坂本 正著より抜粋)
10月23日 新潟県・平成16年(2004)
新潟県中越地震
〔発生状況〕平成16年10月23日17時56分頃、新潟県中越地方を震源とするM6.8の地震が発生、最大震度7(旧川口町)震度6強(小千谷市、旧山古志村、旧小国町)震度6弱(長岡市、十日町市)などで観測。本震後、短時間で震度6強を含む余震が発生その後も長期にわたり余震が続いた。
〔避難状況〕避難勧告1万8,724世帯、6万1,664人、避難指示1,024世帯、3,231人、旧山古志村は、全村避難指示となった。
〔被害状況〕死者68人、負傷者4,805人、住家の全壊3,175棟、半壊13,810棟、一部損壊42,429棟。ライフライン被害、延べ数で、停電約30万8,800戸、ガス供給停止5万6千戸、断水12万9,750戸、上越新幹線列車脱線、関越自動車道10以上一部通行止め、特に、山地で大規模な地滑りや斜面崩壊が発生して、景観が変わってしまった。
〔活動状況等〕発災を受けて、情報収集と支援部隊派遣のため消防庁長官より、埼玉県と仙台市にヘリコプターの出動要請、19時20分新潟県からの要請を受けて緊急消防援助隊の出動を要請、11月1日までの10日間で、累計、1都14県、480隊2,121人、ヘリコプター20機と、緊急消防援助隊発足後、最大規模の出動となった。
主に小千谷市、長岡市、旧山古志村において、孤立住民等の安否確認、救助、救出、救急搬送に従事、余震に備えた警戒活動にあたった。特に、25日全村避難時事が発令された旧山古志村において、関係機関と連携して、消防防災ヘリコプターにより集中的に救出活動を実施。27日には、土砂崩れによる乗用車転落事故現場で派遣の救助隊を中核に合同の救助活動を実施。2歳男児と母親を4日ぶりに救出(母親は死亡)した。
土砂崩れ等の道路による山村集落の孤立、通信手段も伝送路が断線したり、停電によるバッテリーが枯渇したため固定電話や携帯電話など、手段が完全にたたれたため、被害状況の把握が困難になった。
(平成17年消防白書、平成の地震・火山災害(伊藤和明著より抜粋))
10月17日 横浜市・地下スナック爆発
〔被害状況〕昭和47年10月17日12時15分頃、覚知時間12時15分、被害状況 死者4人、重傷3人、中等傷10人。損傷 木造モルタル造地下1階・地上2階建、延面積267平方の内89平方
〔発生状況〕国鉄横浜駅西口の「たぬき小路」にある飲食店で爆発があり、1階の中華料理店で食事中の客ら4人が死亡、13人が重軽傷を負った。爆発当時、地下1階のスナックは深夜営業のため昼間は閉店しており無人だった。
地下1階のスナックで使用していたプロパンガス(容量10kg)が漏洩し室内に充満したところに店内にある地下揚水用ポンプのマグネットスイッチなど何かの火花が引火爆発したものと推定されている。
〔活動状況〕爆発と同時に地下室の天井にあたる中華料理店の床(鉄筋コンクリート6cm~15cm)は吹っ飛び、比較的厚かった入口付近の床を除いて吹き抜けるほどであった。そのため店内は一瞬にして瓦礫の山と化し、死傷者の大半は地下1階及び1階で壊れたコンクリートの下敷きとなり救出活動は困難を極めた。
消防隊が到着した時点では、地下1階のプロパンガスと1、2階の都市ガスが噴出しており都市ガスは13時50分頃ガス会社により閉鎖されたが、プロパンガスはボンベ置場が不明のため21時頃ボンベ撤去されるまで、ガスが噴出する中で救出活動が続けられた。
現場付近一帯は火気厳禁と、2次災害に備え放水態勢を整えて待機、救助隊員は絶えずガス検知を行いながら作業にあたらねばならず、一歩誤れば2次災害が起こる危険を冒しての活動だった。
(一目でわかる警防作戦 坂本正著より抜粋)
10月1日 愛知県大府市
丸全昭和運輸倉庫火災
〔被害状況〕昭和55年10月1日12時07分、覚知時間12時13分、鎮火は、約19時間後の10月2日07時00分 焼損 鉄骨造平屋建て倉庫〔簡易耐火〕1棟、延べ面積3,449平米の内2,154平米焼損(半焼)、風下の住民(200世帯、8,000人)に避難命令。
〔発生状況〕倉庫は大小5棟あり、出火箇所はA棟外部分で、内部はA1からA4に防火区画(重量シャッター)が設けられ、屋根の下地は木毛板となっていた。
当日12時頃A棟の倉庫のA3出入口真上の雨樋の改修工事で、電気溶接作業を行っていた際に発生した火花又はノロが、差しかけ(片流れの屋根)の下に積んであった、梱包材のダンボール、発泡スチロール等に落下して着火したものと推定されている。
〔活動状況〕先着隊の到着時期には火点A倉庫のA3を中心にA4からも黒煙が噴出していた。消防本部では、第2出動後、前非番員の招集と、消防相互応援協定市(6市)に応援要請を行い対応に備えた。
青化ソーダの対応は、外出中の所長が出火から約1時間後に戻って消防隊に劇毒物の管理状況を報告している。それまでは、噴霧注水等により対処していたので、報告を受けた後は、全員空気呼吸器を着装し、界面活性剤を要請し、消火は化学消火剤により実施している。なお、青化ソーダが収容されていない部分の消火は噴霧注水等によって対応している。
状況を把握した大府市では、13時30分から地域住民への広報と、15時30分に風下に当たる地区の住民に避難を命令している。
また、○○化学千葉工場から中和剤(チオ硫酸ナトリウム)を2回にわたり搬送しており、第1便が10月2日2時30分に到着、中和剤は鎮火後、工場の作業員によって貯蔵場所付近に散布している。
この火災は、一つ間違えればシアン化ナトリウムと水と接触して、シアン化水素ガスを噴出して多くの犠牲者が発生する恐れのある火災であった。情報の遅れがあったとされているが、その後、倉庫内の収容物を把握しながら、発泡剤による消火に切り替える等慎重に対応したため、死傷者も出さず、適切な活動であり評価できる。
(事例で学ぶ 特異火災の対応と教訓 竹内吉平著より抜粋)
9月26日 北海道・十勝沖地震と
出光興産(株)北海道製油所タンク火災
〔地震の状況〕平成15年9月26日4時50分頃、北海道襟裳岬の東南東約80km付近を震源とするM8.0の地震が発生、日高・十勝地方で震度6弱を観測。同日6時08分M7.1の余震を観測、浦河町で震度6弱
〔被害状況〕行方不明2人、負傷者849人、全壊116棟、半壊368棟
〔タンク火災発生状況〕地震発生(苫小牧の震度:5弱)の直後、出光興産(株)北海道製油所(苫小牧市)の原油の屋外貯蔵タンク(約3万3千kL)浮き屋根外縁部でリング状の火災及び付属配管から漏洩火災が発生、消火活動の結果、本火災は12時09分に鎮火した。
その2日後の28日、余震による長周期地震動により、地震時の損傷で浮き屋根が沈下していたタンクで、タンク側板と浮き屋根との隙間が生じていた空隙部のスパークにより油に着火してナフサ貯蔵タンク(3万3千kL)で全面火災が発生した。北海道の応援消防隊、緊急消防援助隊が派遣され、また、全国自治体・在日米軍への泡消火薬剤の確保を要請、消火活動を行ったが鎮火まで44時間燃え続け、我が国の備蓄泡剤の約40%が使われたというが、消火できないまま燃え尽きて鎮火するという結果になった(鎮火9月30日6時55分)。
長周期地震動は、第三紀層の地盤地域では、地震後40秒から数分間、5秒から10秒周期の地震波が襲ってくるとされ、体に感じない程度のゆっくりとした揺れで、この揺れがタンクの固有周期と一致すると共振して増幅され、スロッシングによってタンク内で大きな揺れとなる。タンクの規模と周期の関係は、周期5秒でタンク径20m、7秒で40mといわれている。昭和57年3月の日本海中部地震でも浮屋根タンクのリング火災が発生している。多くの石油コンビナート地域は、この第三紀層にあるので備えが必要である。
(平成15年版消防白書より抜粋)
9月15日 枚方市・接着剤製造火災
〔被害状況〕昭和53年9月15日、出火9時24分頃、覚知9時26分(近隣の出張所爆発音による)、死者2人、重傷4人、中傷等10人、軽傷21人、全壊9棟1,558平米、半壊1,064平米、一般住宅の被害111棟。
〔発生状況〕反応釜において異常反応が起こり、可燃性ガスが、釜あるいは接続するパイプ等から流出し、何かの火源から引火爆発したと推定。
事故のすさまじい爆発音は、枚方市一円はもとより、近隣市までおよんだ。特に発生現場から約180mにある出張所では強烈な衝撃を受け、自家用のLPガスの爆発かと錯覚したほどであった。
直ちに本部に連絡、本部は、特別第1出動。すぐ先着隊から“特殊災害”という一報が入ったので第2出動と特命出動体制をとった。
先着隊が現場へ到着した時は、爆発付近より燻煙が上昇していた。だが炎上の気配はなく、工場内の屋根や壁が吹っ飛び鉄骨がむき出しになっていた。
消防隊は、一部の燃焼箇所を消火後、2次災害防止のため屋外タンクや危険物施設への注水を行った。他の消防隊も、包囲体制をとり冷却注水を行った。
各救急隊の覚知から現場到着までの所要時間は、平均4分30秒、いち早く到着した最先着の救急隊が、「傷病者多数あり!」と的確に現状報告を行ったので初期の出動体制が敏速に進められ、各医療機関への受け入れもスムーズに行われたが、現場では、被害が広範囲にわたったため負傷者の検索に多少時間がかかった。
(目で見る警防作戦 坂本正著より抜粋)
9月6日 栃木県(旧)黒磯市
ブリヂストン栃木工場火災
〔被害状況〕平成15年9月6日覚知12時00分、鎮圧9月9日11時50分、鎮火9月10日3時30分。建物40,885平方メートル全焼、天然ゴムやカーボンなど475トン焼損、屋外に保管していたタイヤ約16万5千本を焼失。
〔発生状況〕バンバリー工場(生ゴム、硫黄、カーボン、発泡剤を混合して、タイヤ部材となるゴム平板を製造する工場)内に8機ある精錬ミキサーの3号機付近から出火。
第一報は、携帯電話で栃木工場バンバリー棟から火災が発生しているとの通報。12時06分、先着隊が現場到着時、建物全体から出煙、バンバリー棟2階3階より黒煙が出煙、工場関係者より要救助者はいないと聴取、バンバリー棟の火勢が強く黒煙及び火炎を上げて延焼拡大中。現場に到着した指揮者は、大規模建物火災で、危険物や危険性物質が大量に燃焼する火災なので、管轄の消防車両だけでは消火することが困難と判断し直ちに応援要請を行った。
栃木県内14本部と福島県の白河広域本部、緊急消防援助隊の要請で東京消防庁から応援隊が駆けつけた。12時41分 緊急伝達システムにより付近住民に避難要請(自主避難)、13時47分 全消防分団招集、16時00分 県内全消防本部に応援要請。
9月9日、2時05分 東京消防庁より化学車3台、屈折梯子車3台など(25隊、91名)到着。
本火災では、100台近い消防車が放水した。消火栓の水利だけでは到底対応できない状況。現地では工場東側に小さな川があり、少し離れたところにある那須疎水から水を引き入れ堰き止めて用水を確保している。
出動隊176隊、1,800名を超える消防隊の休憩や交代、水分補給がスムーズに行われ体調をくずす隊員や死傷する隊員もでなかった。
タイヤ製品が燃える火災であったことから、吹き上げる黒煙と飛び散ったタールで使用困難となり破棄しなければならない資器材は、ホース1,000本以上、防火衣800着程度、空気呼吸器100~300基となった。
(平成15年版消防白書及び近代消防No511)
8月23日 長野市・善光寺大本願火災
〔被害状況〕昭和54年8月23日19時15分頃、覚知19時31分、鎮火20時27分 火元建物焼失面積812平方米、類焼建物焼失面積26平方米、死傷者3人
〔発生状況〕大本願は、周囲を築地塀で囲っており特に西側民家との境は高さ6m厚さ20cmのため延焼防止には有効であったが、消防隊の防御活動には大きな障害となった。
火災原因は、コンロ側壁のステンレス張り石膏ボードの放射熱によるものと言われており、低温加熱による場合の発見は容易でないが、低温加熱の例は極めて多い。
出動の各隊は、火災防御の基本原則により、延焼防止地域を4方面から包囲し、水利部署している。ホースの延長も順調で間髪入れない放水開始だった。
火災の覚知から出動、放水開始までの一連の行動時間は、先着4隊を平均すれば、4分。この時間は物理的に短縮することはできない。その間、延焼時間は通報まで13分、到着時間4分、270平方米が延焼中であったといえる。
消防隊が現場到着したときは、火災は最盛期の状態だった。西側の民家に延焼する危険が大きいため、先着2隊は、西側民家への延焼防止を重点に防御、後着2隊は、大本願正面及び南面より進入、本殿等への延焼防止と火勢鎮圧の攻守両面防御活動を行った。
消防団4か分団は、それぞれ大本願、東、北、南面より進入、3か分団は、西側の民家の延焼防止にあたる署隊の援護活動を行った。
先着の桜木町隊は、3線延長1線2又分岐で民家方面の延焼防止効果は十分あり、また奥署員、宝物殿の面に進入背面防御している。吉田隊は、正面から進入し表書院の火勢制圧にあたった。これが少しでも遅延していれば本願殿に延焼していただろう。中間の植木にはすでに延焼がはじまっていた。
(目で見る警防作戦 坂本正著より抜粋)
8月20日 千葉市・凸地火災
〔被害状況〕昭和53年8月20日23時12分頃、覚知23時22分、鎮火21日0時40分 全焼3棟、半焼2棟、焼失面積843平方米、死傷者なし
〔発生状況〕この火災は、空地に面した街区火災と思われそうだが、3方面が高台に囲まれ寮やガスタンクが40mの近距離に所在し、一方は狭隘な道路を隔てて木造家屋が密集している。
最先着隊が到着した時の状況は、出火建物はすでに最盛期で、南側のアパートや北側の一般住宅に延焼拡大中で、さらに東側高台のガスタンクにまで火の粉が飛散していた。
先着隊は、南側アパートと西側一般住宅への延焼防止と東側ガスタンクへの冷却注水を行い、延焼拡大の推移と第二次災害の危険を予知判断し応援要請を図った。次いで、後続消防隊は、南、西側の延焼防止にあたるよう、無線で指示した。
その後、人命検索を行い要救助者の有無を確認したが、全員避難していた。
先着隊長の判断は良かった。応援要請、後着隊へのアドバイス、人命検索など、先着隊は少人数でなすべきことが多い。第2、第1分隊の連携は良く1分隊の1線ホース4本によるアパートの延焼阻止、第2線のガスタンク冷却は、この火災防御で最も評価できる。
(目で見る警防作戦 坂本正著より抜粋)
8月10日 京浜区東京湾・小型タンカー
爆発火災―第61栄宝丸-
〔被害状況〕昭和54年8月10日10時21分頃
損害 焼損程度 トルエン若干焼損 死者2人、行方不明1人(数日後、無残な姿で発見)、負傷者1人、船体の第1・2・3番船倉のうち、3番船倉がふっ飛び、膨張甲板が海中に没した。全通甲板が脹らみ、コファーダム及びポンプルームが破損した。
〔発生状況〕発見通報の状況は、大井信号所の所長が爆発音を聞いて被災船から上がっている白煙を確認した。たまたま同時刻にタグボートが大井埠頭先で誘導して接岸作業中に爆発音を聞き現場に急行したところ、負傷者がいたので無線で芝浦通船(港区海岸)へ連絡した。連絡を受けた通船は他の数名と協力して海上保安部、水上警察、119番通報、救急要請を行った。
初期消火と避難の状況は、爆発的に炎上したが、その後すぐ自然鎮火したので初期消火は行われていない。
出火原因は、第61栄宝丸が東京油槽倉庫に積み荷の溶剤を降ろしたあと千葉港に向かう途中、中央防波堤外で燃料補給をするため輸送船を待つ間、タンク内に残っていた揮発性ガスのクリーニング作業(ガス抜き作業)をしていたところ、何かの火が引火し爆発炎上したものと推定される。
消防艇には、現場到着順によりそれぞれ定められた任務がある。活動を見ると、原則に基づき両舷に達着、乗船。船内の調査、行方不明者の検索が行われている。
危険物移送の船舶火災は、一度の爆発にとどまるとは限らない。被災船舶の接舷防御する危険は、想像を絶するようなはかり知れないものがある。過去の室蘭港における船舶火災の例もあるように時間をおいて何度も大爆発を起こす場合があるからだ。
(目で見る警防作戦 坂本正著より抜粋)
7月26日 長野県長野市 地附山地滑り災害
〔被害状況〕昭和60年7月26日17時頃から発生
被害 特別養護老人ホーム「松寿荘」入所者197人のうち26人死亡、湯谷団地内の建物64棟全半壊。
〔発生状況〕地附山は、長野市の中心部の北西に位置する標高733mの山で、地附山に登ると善光寺がすぐ下に見え、遠く志賀高原が望まれる。
梅雨期間中の昭和60年6月8日から7月15日まで長野地方は、総雨量が449ミリと、年間降雨量の半分を記録した。また梅雨明け後の7月20日には、雷を伴った集中豪雨に見舞われ58.5ミリの雨量を記録するなど、異常降雨に見舞われていた。
7月20日頃から木の根が切れる音や、山腹を通る戸隠ハードラインで亀裂、斜面の小崩落などの前兆現象があり、監視体制が続いているなか、26日の16時30分に長が湯谷団地38世帯に避難指示が出され、その後、湯谷団地全体、聖岳台、上松2丁目、滝地区と605世帯に拡大した。
17時20分に湯谷団地のテレビ等の下から、斜面が崩れはじめ、ゆっくりと動き始めた斜面は巨大な土の塊となって、17時35分には特別養護老人ホーム「松寿荘」に土砂が流れ込み、18時30分に「松寿荘」全壊、湯谷団地と周辺に住む1,000人以上が避難。滑り落ちた斜面の面積は、約25ヘクタール。長さ700m、幅500m、深さ60mの巨大な斜面が、山裾に向かってじわりじわりと落ちていき、大災害を引き起こした。
発生の因果関係については、長野地裁が「県の有料道路の管理上の瑕疵が、地すべりの原因になった」という判決を下している。
現在、同地は「防災メモリアル地附山公園」として整備され、園内には地附山観測センター(地すべり資料館)や、集水井・集水路などがあり地すべり災害とその対策について学ぶことができる。また、長野市街地から志賀高原まで一望できる展望台になっている。
7月17日 大阪府・堺市
アルキルアルミ製造工場爆発火災事故
〔被害状況〕平成8年7月17日9時59分頃、覚知9時59分119番通報
損害 マルチ工程及び周囲水素圧縮機室ほぼ全焼、事務所及び危険物施設等11棟一部破損、一般住宅の窓ガラス破損等39件、負傷者13人
〔発生状況〕アルキルアルミニウム及び塩素系誘導品並びに有機金属化合物を製造するプラントで、マルチ工程において、水素化反応器により金属の水素化物を製造中反応器が爆発し、火災が発生した。この事故により構内で作業をしていた13名が負傷、半径約1kmの範囲の一般住宅等にも爆風により窓ガラスの破損等の被害がでた。
防御活動については、アルキルアルミのプラントであり、大量の金属の水素化物と思われる危険物が小爆発を繰り返しながら燃焼している状況で慎重を期した。
爆発の大きいものとしては、9時59分及び消防隊到着後の10時19分と10時27分の3回で、2回目、3回目の爆発の際には、消防隊も被災するおそれがあったため現場指揮所を移動した。
プラント本体の火災は、爆発後、1時間程度(11時頃まで)で衰退し、その後は小規模な火災が数カ所で継続する状態であり、12時30分プラント火災は鎮圧できた。
消防活動する際、特に留意したこと。
1.広範囲における警戒区域を設定。
2.禁水場所を特定し、バーミキュライトにより消火活動を行った。
3.禁水場所以外では、積極的な冷却活動を行った。
4.自走式放水車、耐爆化学車等による活動を行った。
5.隊員の安全確保を最優先し、車両等の障壁を最大限活用した。
雑誌「近代消防」(2000年7月臨時増刊号)-特殊災害と消防活動-より。
7月14日 東京都・勝島倉庫火災
〔被害状況〕昭和39年7月14日21時55分頃、覚知22時00分大森消防署馬込出張所の望楼発見
損害 倉庫10棟7,364平米焼損、死者19人(消防職員18人、消防団員1人)、負傷者114人(消防職員80人、消防団員9人、警察官・報道関係24人)
〔発生状況〕宝組勝島倉庫は、品川区勝島に所在し、東京湾に面する倉庫街の広場に違法に野積みされたドラム缶入りの硝化綿が長時間炎天下にあったために自然発火して拡大し、近くに無許可貯蔵されていたアセトン、アルコール類も次々と引火爆発し、瞬時に大火災となったが、消防隊の必死の活動によって沈静化し、50分後には火勢がほぼ沈静化されたかに見えた。そのとき倉庫内に貯蔵されていたメチル、エチルケトン、パーオキサイドに誘爆し、消火活動中の消防職員18名、消防団員1名の尊い命を一瞬にして奪い、114名もの人たちが負傷するという消防史上かってない悲惨な大惨事になった。
出場した各消防隊は、主力を延焼中の硝化綿と野積みされた約4,000本のアセトンやアルコール類への延焼の防御に務め、再度の爆発的燃焼を考慮して、現在の進入位置を確保し、これ以上進入防御することのないように伝達。
しかし、火勢は一向に衰えを見せず空地に面する倉庫は、次々と最盛期を迎え裏側の建物へと火災が延びていった。このような状況の中で突然大爆発が起こった(10時56分)。爆発地点は最初の爆発地点から30mほど寄った普通倉庫のはずの12号倉庫で、出火から約1時間後であった。
この倉庫には、パーメックNが約2,200kg保管されており、これが爆発したもので、現場全体が火の海と化してしまった。
勝島倉庫火災の詳細は竹内吉平著「事例で学ぶ 特異火災対応と教訓」(近代消防社刊)をご覧ください。
6月24日 大阪市・建設作業員宿舎火災
〔被害状況〕昭和52年6月24日1時13分頃、覚知1時23分、鎮火9時15分
損害 木造モルタル塗2階建瓦葺き、建築面積131平米、延面積256平米全焼、死者12人、負傷者3人
〔出火建物概要〕出火建物は、昭和25年に建築された建設作業員用寄宿舎で、部屋数は1階4室、2階8室のほか、1階には事務所と食堂が、2階には物置と布団部屋があり、出火時の在室者は24人であった。
〔発生状況〕第1発見者は、火元に隣接する北側の住人で、便所に行くため起きると、部屋の出入口のガラスが真っ赤になっているので驚いて119番をまわした。
出動指令された泉尾出張所は、近隣であり査察等で所在建物構造を熟知し人命危険も察知していた。出張所から直線で150m、先着隊は火点建物前に部署しホースを延長し、屋内進入をしようとして開口部から内部を見ると、火勢はすでに白輝色をていし中心部は焼け落ちて屋外火災の様相で、内部進入できる状態ではなかった。
次に到着した隊員は、2階の床が焼け落ちているとは知らず、平屋の火災と思った。というように発見と通報の遅れが感じられる。
※多数の死者を発生させた問題点と教訓
・深夜の火災で発見が遅れたこと。
・出火箇所が1階の唯一の出入口付近であったため、これが避難口として利用できなかったこと。
・建物が老朽粗雑で、各室界壁も燃えやすい材料が使用されていたため延焼速度が速く、火災が急速に拡大したこと。
・北側にある屋外階段へ通じる2階の出入口が物置内にあり、扉の前に物品が置かれていたため避難に利用されなかったこと。
(昭和52年版消防白書より抜粋)
6月15日 半田市・ビジネスホテル火災
〔被害状況〕昭和53年6月15日1時57分頃、覚知2時19分、鎮火4時05分
損害 新館・鉄筋コンクリート造3階建、旧館・木造一部鉄筋コンクリート造2階建、建築面積258.23平米、延面積663.41平米全焼、死者7人、負傷者20人、消防職員4人
〔発生状況〕出火建物は、鉄筋コンクリート造3階建新館と、隣接の木造瓦葺き2階建ての旧館からなるビジネスホテルで、宿泊客33人と従業員3人がいた。
管理人は、自動火災報知器のベルによって目を覚まし、ロビーに出たところ大量の煙があったので、玄関を開放し旧館方向に進んだが、濃煙に遮られ火元確認はできなかった。
直ちに、新館南西隣で就寝していた従業員を起こし、南側窓から屋外に避難し、屋外から宿泊客に知らせるべく大声で叫び続けたが、避難誘導、初期消火、通報はしなかった。
先着隊の到着時、すでに木造旧館はほとんど燃え尽くし、新館1階内部が延焼中で、東側隣接倉庫にも延焼していた。
1階部分は、フロアー全域に火勢が拡大しており、内部からの進入は不可能であったので、外部から侵入するためボイラー小屋根に昇り、エンジンカッターでルーバーの切断を試みたが間隔が狭く切断不能、ルーバーの破壊を試みたが、結合が上方1点、下方2点あり、下部での破壊が困難であるため、室内の要救助者にとび口を渡し、上部の破壊を求め成功し、4本のルーバーを除去、積載はしごを経て5人の救出に成功した。
問題点と教訓
・防火管理者未選任、消防計画未作成
・初期消火、避難誘導がなされなかった。
・通報に時間がかかった(隣接の住人より22分後に通報)
(昭和53年版消防白書より抜粋)
6月10日 東京都・帝国劇場火災
〔被害状況〕昭和55年6月10日7時45分頃、覚知7時55分、鎮火9時20分 建物の概要耐火造地上9階(地下6階)、建築面積3,735平方米、延面積39,967平方、死傷者なし
〔発生状況〕ミュージカル「屋根の上のヴァイオリン弾き」のロングラン公演中の出火であった。たまたまこの日は休演日のため観客等の人的被害はなかったが、舞台はメチャクチャ、照明が焼け落ち、舞台や舞台装置、道具類が焼失した。舞台裏には表から見ただけでは想像もできないような吊り物、照明装置が数多く頭上に、そして地下6階までいたる深い「奈落」に、数多くの舞台装置が詰め込まれている。このような特殊な装置をかいくぐっての消防活動は落下、墜落など隊員自身の危険が多くつきまとうものだ。
前日の公演が終演後、照明、電飾、舞台効果など関係者が作業をしていた。7時頃出演者約50名が入館して舞台でリハーサルを行っていた。
第一発見者は、舞台中央部後部のプロジェクター上で映写準備をしていた。作業中に舞台の上手上方を見ると、ボーダーライト付近の黒幕前のコードがたるんでいて15cm位の大きさで燃えているように見えた。最初はライトかと思っていたが、燃えていたので「火事だ!」と叫んだ。
この火災の特徴は、帝国劇場に設置された消防設備によって消火したことである。
なお建物は複合用途で、6階から9階は区画された別棟になっていて、事務所で使用している。火災の放送によりすでに出勤していた200余名は内階段、エレベーターを使用して避難している。
電気設備の従業員は、舞台部に駆けつけ、直ちに舞台奥の屋内消火栓のホースを延長、緞帳、スクリーンなどの吊り物に注水している内、火勢が急激となり上部へ燃え上がり危険を感じ、他のホースを領して消火に当たった。
副支配人は、舞台部そでにある開放型スプリンクラーの起動ボタンを押し、3区画になっている193個のヘッドから一斉放水させた。
現場到着の消防隊は、水損を考慮して、放水が不必要と思われる屋内消火栓、スプリンクラーの止水に努め、舞台部奥の消火栓により一口延長、各所の消火に当たるとともに残火処理と点検を行った。
(目で見る警防作戦 坂本正著より抜粋)
5月29日 藤沢市東急ストアー辻堂店火災
〔被害状況〕昭和53年5月29日16時50分頃、覚知16時56分、鎮火20時00分 損害鉄筋コンクリート造地上5階、塔屋2階 、延面積4,480.563平米のうち4、5階1,729.194平米焼損、死者1人、負傷者6人(うち2人は消防職団員)
〔発生状況〕出火建物は大型小売店舗で、各階の用途は、1階が食料品売場、2、3階が衣料品売場、4階が日用雑貨売場、5階が電気製品売場で、屋上は駐車場となっていた。
第一発見者は4階の薬局定員で、地区ベルの音を聞き見回したところ女性客4~5人が「火事だ」と叫び逃げてきたため、これらの客を従業員専用階段へ避難させ、炎が上がっているのを見て消火器を使用しようとしたが、バンドで固定してあり、取り外し方を知らなかったためあきらめた。
4階で出火した火災は、4階客用階段の閉鎖されていなかったシャッターを経て、5階の半開き状態のシャッター部分から5階へ延焼した。
3階以下の客は、地区ベルの鳴動を聞き、従業員の指示に従い階段を使用し、全員避難した。子供3人は誘導されることなく、エレベーターを使用し屋上階に避難した後、はしご車により救出されている。
死者は、出火時刻直後(推定)出火建物に来ていて、1階に降りていたエレベーターに乗り、5階でたまたま避難してきた子供3人とともに屋上階へ一旦昇った者であった。その後屋上への階段踊り場で死亡していた。
教訓として、避難階段の開口部の防火シャッターが、ダンボール箱や商品等の障害物により閉鎖できずに、階段が煙の拡散経路になったこと。初期消火が行われなかったこと。設備が整っていても管理する人的態勢が不備であれば重大な惨事を招くということ。
また、4月で全従業員の3分の1が新規採用であったにもかかわらず、防災教育等が全く行われていなかったこと。
(昭和53年版消防白書より抜粋)
5月23日 北海道室蘭市
日本初のタンカー火災
〔被害状況〕昭和40年5月23日7時10分頃、原油タンカーが日本石油室蘭製油所の荷役桟橋に激突、原油が流失して引火、大型タンカー全焼、乗員38名の内、死者8名、負傷者25名、鎮火は6月19日
〔発生状況〕大型タンカーが日本石油室蘭製油所の荷役桟橋に接岸しようとして操船を誤り、船首右舷船腹をコンクリート造の桟橋突端に激突し、幅50cm、長さ3~4mに渡って亀裂が生じ、海面に積載原油が大量に流出したので、ただちに脱出のため自力で後退したが150m地点で座礁、流出した原油は潮流と風に乗って概ね1,500平方の範囲に拡散。
衝突から約30分後、船尾で引き綱作業をしていたタグボート付近から流出原油に引火(火源不明)船首方面に向かって拡大、亀裂から船内に延焼、第1回目の大爆発(7時37分)。タンカー全体は火災と黒煙につつまれ煙は500m上空に達した。
第2回目爆発は、8時24分頃(47分後)、右舷第2輸送付近で爆発と同時に船首部の炎は一段と火勢を増していった。その後爆発を繰り返していたが、25日6時00分大音響とともに左舷第7油槽付近で最大の爆発が起こり、この爆発により大量の原油を流出させ、燃焼しながら湾の奥(市街地)に向かって流れ出し、最悪の状態になっていった。
事故発生とともに室蘭市消防本部、海上保安部の消防艇は、被災船と岸壁に挟まれた海面で猛烈な勢いで延焼中の火災を岸壁を楯として泡消火剤を放射し、消防艇は水上から消火に当たり、1時間後に水面の消火に成功した。
その後、はしけにポンプを積んで船尾に達着させ、13時45分泡消火剤を6口、隊員23名により船首右舷に一斉放水し、他の2口ノズルは噴霧注水で隊員の冷却防護に当たった。約1時間に渡って防御中、第4油槽付近で3回目の爆発が起こり、大火災となり避難は絶望視されたが、消防艇が自艇の危険を顧みず大量の援護放水を敢行し、全員がかろうじて退避することができた。
その後、冷却等に長い日時に渡り死闘を続け、発災より27日、日本最長の火災記録を残して鎮火したのである。(目で見る警防作戦・坂本正著より抜粋)
5月13日 岩国市・岩国病院火災
〔被害状況〕昭和52年5月13日22時50分頃、覚知23時14分、鎮火24日0時9分 焼損 木造2階建て、延面積550.17平米のうち465平米、死者7人、負傷者5人
〔発生状況〕出火時、出火建物には、1階には入院患者11名と付添人4名、2階には入院患者21名の計36名がいた。出火が消灯(22時)の後であったからほとんどの患者は就寝していたものと思われる。
2階の患者が22時40分頃テレビを見た後、便所に行った帰り階段室から煙が上っているのを認め、不審に思って階段を降りてみると、10号室(火元)の中の火が出入口のガラス越しに見えたので、新館2階の看護師詰め所に知らせに行った。
消防機関への通報者は、出火病棟から4m幅の道路を隔てた所の住民で、23時頃、病院に面した窓ガラスが明るくなり、急に騒がしくなったので、不審に思い外に出てみると、病棟1階角の病室の窓から火と煙が吹き出しているのを確認、隣の住宅に駆け込んで、通報している。
第一発見者の叫び声やその直後に鳴動した自火報のベルで火災に気づいて自力避難した者も数名いたが、ほとんどは、看護師、住民、警察官、消防職団員の救出活動によって助け出されている。しかし延焼速度が速く、発見が遅れたこともあり、2階で6名は救出できなかった。また、1階から救出した患者1名は病院収容後死亡した。
問題点は、発見が遅れ、有効な初期消火がなされなかったことも要因であるが、出火建物は、大正9年の木造老朽建物で、1階各部屋の界壁は天井裏で切れているため、隣室への延焼拡大が早く、2階各室も同様で有効な防火隔壁がないため延焼拡大が早かった。
また、出火室にごく近く2階への屋内階段があったため、これがドラフト効果となって、2階への火の周りを急速にし、一挙に火災が拡大したものと考えられる。
消防用設備等の設置及び維持管理については良好であったが、しかし夜間看護師3名で対応しており建物構造や入院患者数あるいは疾病程度からすれば十分な人員とはいえない。
4月17日 大阪府高槻市
名神高速道路梶原第1トンネル火災
〔被害状況〕出火日時 昭和55年4月17日23時28分頃、損害 火元 普通トラック(5トン車)1台全焼及び積荷全焼、類焼 大型トラック(11トン車)1台半焼及び積荷全損。死者1人(普通トラックの運転手)
〔発生状況〕大阪府高槻市を通る名神高速道路梶原第1トンネル(739.1m)上り線(大阪から京都方面に向かう)でトラックが側壁に激突、積荷の塗料などに引火、後続トラック1台とともに爆発炎上した。同トンネルの中央付近には乗客30人を乗せた観光バスもおり、1時間半にわたって炎と猛煙に包まれたが、間一髪で惨事をまぬがれた。
茨木市消防本部は、23時36分道路公団から「茨木から京都に向かって最初のトンネル内で車両火災」という内容を受信し、直ちに高槻市消防本部へ加入者電話で通報。
茨木市のタンク車1台、化学車1台は茨木ICから進入し、途中500kP付近から車両の渋滞が見られ、トンネル西口側手前70m付近で車両が3列(数台は逆方向)に停車しており、数台を移動して西口側に到着。トンネル上部から2~3mの層をなし白煙が噴出していた。
トンネル内に約70m進入したところで、濃煙となり停車、空気呼吸器を着装し前進、約530m地点で熱気と黒煙で前進不可能になり停車した時、前方20mに大型トラックが燃焼しているのを発見し消火活動をする。高槻市のタンク車1台、ポンプ車1台は高速道路の下側から貯水槽に部署し中継体制を完了後、隊員は西口からトンネルに進入茨木隊と合流。
島本町タンク1台は、トンネル管理事務所から進入、上り線を逆走可能との指示により走行、東口側に到着、トンネル全体から黒煙が猛烈に噴出しており空気呼吸器を着装後、約20m地点にトラックらしき車両及び路面一体が燃焼しているのを確認し自積水により消火作業をする。
高槻市の水槽車1台、ポンプ1台はトンネル管理事務所から進入し上り線を逆走して東口側に到着。トンネル内で横転したトラック1台が黒煙を出し燃焼中で、付近一帯の路面に18リットル缶多数が燃焼していた。消火作業に従事するとともに島本隊に中継送水を行う。
〔避難の状況〕事故車両に後続していた車両の関係者は事故発生前に、事故車両が蛇行したのを認めたので危険を予測して減速運転をしており、出火時には半焼した大型トラックの運転者の合図でトンネル内には数台の大型トラックを残しすべて後退して災難を免れた。
(目で見る警防作戦 坂本正著より抜粋)
4月13日 仙台市・旧映画館火災
〔被害状況〕昭和54年4月13日15時14分頃、覚知15時16分、焼損棟、1棟全焼、部分焼1棟、焼損面積1,457平米。
〔発生状況〕長い間、仙台市民から「東劇(東北劇場)」と呼ばれ、映画ファンに親しまれていた映画館の解体工事中の火災である。
出火原因は、館内東側階段下の物置内において酸素プロパンガス溶断機で整流器を溶断解体。昼食後、再び14時30分頃、玄関で映写機を解体していたとき、整流器を解体していた物置の羽目板から燃え上がり火災となったものと推定されている。
この火災の推定出火時間は15時14分頃、覚知が15時16分、先着の現場到着が15時20分、21分放水開始と活動はスムーズに行っている。建物のほぼ中央部から出火したと想定すれば、出火から放水開始までの7分間の延焼速度は、建物の構造が古材だから大まかに見て1mとなる。7分後には133平方メートルまで拡大、先着の中隊長は「全館延焼中、第2期火災(仙台消防はこのように言っている。)」と報告しており大体一致している。
救助隊は現着と同時に隊員2名が呼吸器を着装。劇場中央部と及び南側を人命検索。結果2階南側より3名を入り口まで誘導。その後、西側を検索したが異常のないことを確認。
検索任務を終えた救助隊は、現場に放置されていた500キロ酸素ボンペ2本を搬出している。溶断に使用する場合は、アセチレンボンベも置いてある場合が多い。いずれも急激な加熱があれば、安全弁があっても破裂しないという保障はない。良いことだ。
モルタル壁の構造は、内部の木ズリが燃焼すれば壁体は、熱膨張により必ず外に向かって反り一度に落下する。その時の判断は、全隊員が常に注意しなければならないが。防御中の隊員にはとっさの判断が不可能であり、要求することは無理である。全般を監視できる立場の指揮官が注意し、落下の兆候が少しでも感じられたら緊急に待避させることである。
順調に放水を開始したが、防火造2階老朽建物は、倒壊の危険にひんしていて、モルタル壁が倒壊したが、各隊長は冷静に状況判断し、防御を行う隊員の進退を指揮している。
4月1日 神戸市・カンダ工業所火災
〔被害状況〕昭和47年4月1日22時57分、焼損棟、簡易耐火造スレート葺1棟255平方全焼、木造瓦葺1棟25平米半焼。死者5人、負傷者5人
〔発生状況〕従業員が、18時頃から友人と酒を飲み、20時頃帰宅し1階作業所に入った際、オガ屑のたまっている作業所床の東側より中央部でタバコの吸い殻を捨てて3階に上がった。
捨てられたタバコの吸い殻がオガ屑に着火燻焼し、22時50分頃東側の引戸に立てかけてあった建具材の切れ端に燃え移り、周囲及び上方に拡大していったものと推定されている。
火元建物南の方から見た発見者が塀に立てかけた木材の中央部の建物寄りから炎が上がっていたと述べ、火元建物北方面から見た発見者が、1階中央部付近から炎が出て東側に移っていったと述べているように出火建物が作業場併用住宅で、1階に大量の可燃物が散在し、上階へ容易に延焼拡大していったものと思われる。
問題点は、避難路が逆方向に2か所無かったこと、煙感知器が取り付けられてあったが、火災時有効に作動しなかったことなどが上げられている。
3月25日 北九州市・貫山林林火災
〔被害状況〕昭和52年3月25日、北九州市の貫山系の平尾台で火入れ警備中、火入れとは別に貫山東側に山林火災が発生を覚知、この防御活動にあたっていた消防職員5人殉職、県職員1人負傷。
〔発生状況〕平尾台は、南北11km、東西2km、標高400m~600mの高原で、農家、酪農施設があり、春から秋は行楽客が訪れるので、安全と山林棟を守るため例年の焼きが行われている。
11時40分頃、火入れとは別の貫山東側で山林火災が発生、警備隊はただちに防御に出動した。山頂から稜線を形成する約40度の急傾斜面で、火線は9合目付近から山麓にかけて約200mわたり北に向かって延焼しており、防御活動を行い鎮火後、山頂付近から降りてきた県職員5人と合流、現在地から下方約250mのやや平坦地を北に向かって燃え広がる火線があり、火勢も弱く安全を確認し、下方50mの地点に達した時、火勢が、突然の局地風により隊員が進行している急斜面に向かって延焼をはじめた。
13時35分頃、退避している隊員の後方で、突然轟音を伴って20mから30mの炎が上がり、さらに谷に沿って吹き上げる風と火勢が相乗して猛烈な奔流となって山肌を一気に上昇、山腹を横切るように退避したが、火線は幅80mで、40度の急斜面約200mを瞬時に噴き上げ、隊員16人の内殉職5人、県職員1人が負傷する惨事となった。
3月15日 日光市・日光東照宮境内
本地堂(薬師寺)火災・文化財火災
〔被害状況〕昭和36年3月15日19時11分出火、19時25分覚知(加入電話)、木造平屋銅かわらぶき、330平方、1棟全焼、出火原因は、控室の炬燵に使用した電気コンロをかたづけた際、その上に座布団を重ねたため余熱により着火したと推定。
〔発生状況〕本地堂は、寛永11年秋より13年の間に造営され、明治41年国宝となり法改正で重要文化財に指定された。
19時過ぎ、本地堂内の火災感知器が作動し、発報ベルの鳴動により認知し、東照宮社務所内の宿直責任者が夜警員Tを至急現場確認に走らせた。
Tからの連絡が遅いので改めて夜警員Hを現場に走らせた結果、本地堂の南側が燃えており、Tが消火活動中である旨引き返しての報告により判明し、火災通報がなされた。
夜警員Tが、堂の正面脇の直近の地下式消火栓に備え付けホース1本を延長、消火に当たったが施錠されているため堂内進入はできず、かつ訓練の未熟と焦りのため、有効注水はなされず完全に失敗している。
Tが発見した時は、南西側連子窓付近から白煙が噴出していたのみであり、また、日光消防署の消防隊は現場に急行、本地堂南西道路上の貯水池に部署、ホース3本2口延長、高さ8mの石垣及び塀を乗り越え南面の防御にあたった。先着隊到着時に於いては、堂内ほぼ全体に火が回っていたようであるが南面から火が噴出しており最も火勢が強かったように認められている。
(目で見る警防作戦 坂本正著より 抜粋)
3月10日 新潟市
スナック エル・アドロ火災
〔被害状況〕昭和53年3月10日0時11分出火、店舗併用住宅(今町会館)鉄骨簡易耐火構造3階建、建築面積126.1平方、延面積341.9平方。焼損面積「スナック」使用部分78平方、死者11人、負傷者2人
〔発生状況〕スナックは1階にあり、出入口は一つで、入り口のドアから店内までの5mはS字型通路のトンネルで、幅0.7~0.9m、天井高2m。内装は、床面パンチングカーペット敷き、壁体及び天井をハイパル(100%)仕上げの布で覆われていた。
避難にも障害となるトンネル状の通路から出火、仕上げ材が速く燃え、大量の有毒ガスが発生したため、ほとんどの客や従業員は逃げ道を失った。
火災覚知は0時11分、現場まで1.2km、水利部署、ホース延長して防御活動開始、この5分間は物理的に縮めることのできない時間である。
(出動した消防隊員の声)
・ドアが自動だったのでドアを支えながら注水し煙を制圧してから進入した。
・当初、内部は煙が充満し、全く確認できなかった。
・人を確認できたときにはすでに煙も火も鎮火状態になっていた。空気呼吸器がなければ、全く動きがとれなかった。
(目で見る警防作戦 坂本正著より 抜粋)
2月28日 北九州市・傾斜密集地大火
〔被害状況〕昭和54年2月28日2時10分頃、覚知は2時18分、放水開始2時26分。火元は、Hアパート(木造2階トタン葺き)。焼損棟数、全焼23棟、部分焼3棟、焼損面積2,114平方、罹災世帯数38世帯(93人)、火傷3人(消防職員)
〔発生状況〕当日は、北部九州一帯は低気圧が断続的に通過し急激に気温は低下、北西からの強風が小雪混じりで吹き荒れていた。
火災は風下低所の木造建築物アパートの空室から出火。発見が遅れ、崖うえの人から通報、消防の覚知は相当延焼拡大してからと類推できる。
火災現場は、風師山山ろくの斜面に位置し、下方に鹿児島本線、上方は西鉄電車通りという両軌道に挟まれた幅員30m、長さ100mの区域で、街区内は1m前後の狭い露地をはさんで、約30度の斜面に老朽木造家屋が密集していた。
先着隊が放水を開始するまで16分、この間の延焼速度は平均風速12m/sであったから、危険度判定により毎分2mと推定され、火点より風下48~50m付近までが猛烈に延焼中で走炎(火災ガスが燃焼しながら風下に流れる現象)も斜面に沿ってたたきつけるように40mは流れていたと思われる。
先着消防隊の数隊は地形の関係で自然と火点上部の道路に集中しなければならなくなった。高低地火災では、この部署でなければ上部に向かっていくらでも延焼していく、電車通りは理想的な道路であったといえる。
この火災は、傾斜地の高低地域火災で、異常乾燥注意報発令下の強風時火災、鉄道軌道沿線火災と、特殊地域火災の悪条件が重なり合っている。
(目で見る警防作戦 坂本正監修より 抜粋)
2月16日 埼玉県三芳町倉庫(アスクル)火災
〔被害状況〕平成29年2月16日9時05分、排気管より出火、覚知9時14分、鎮火は12日後の2月28日17時。鉄筋コンクリート造・鉄骨造(ALCS)3階建て、建築面積26.977.99平方、延面積71,891.59平方のうち43,981平方、負傷2人
〔発生状況〕9時00分頃、1階端材室で作業を開始したA(火災の発見者)が、焦げ臭い臭いを感じ振り向くと、端材室の床から50cm位の炎が立ち上がっているのを発見した。
Aは、着ていた衣服で覆って消そうとしたが、消えず、端材室付近の消火器を取りに行って、消火器で消火を行ったが消火できなかった。
Bは、自火報の鳴るのを聞き、端材室からの煙を見て他の2名と駆け付け消火器で消火を行ったが火の勢いが強くて、消火できなかった。その後、携帯電話で119番通報した。
また、事務所にいたCは自火報の鳴動で、防災センターに駆け付け更に端材室に駆け付け消火器で消火を行ったが、火の勢いが強いため、最寄りの屋外消火栓設備からホースを延長するように指示した。従業員は屋外消火栓ホースを延長し、バルブを開放した。他の従業員も屋外消火栓のホースを延長し、バルブを開放したが、ポンプの起動ボタンを押さなかったためポンプが起動せず、初期消火に十分な放水量が得られなかった。
教訓、1階の火災発見者が、周囲に発生を知らせなかった。2階の従業員も端材室の開口部から火が出ているのを発見したが、初期消火、防災センターへの連絡をしないで避難した。など、通報の遅れ。
前記の屋外消火栓設備の取り扱いが熟知されていなかった。
2階、3階の防火シャッター(133か所)のうち、・作動しなかったもの(61か所)、・コンベヤ、物品等により閉鎖障害が発生したもの(23か所)、・破壊により不明(4か所)約66%が正常に作動しなかったことにより4万3千平方が焼失した。
2月6日 福島県郡山市・熱海町磐光ホテル火災
〔被害状況〕昭和44年2月5日21時頃出火、覚知は21時15分熱海出張所加入電話により通報。鉄筋コンクリート造部分(磐光ホテル及び磐光パラダイス)延べ13,623平方、木造部分283(ニュー磐光)平方。死者31人、負傷者31人、当日の宿泊者295人。
〔発生状況〕21時頃、磐光ホテル1階大広間の舞台裏の控え室で、演芸に出演するため、金粉ショーに使用する松明4本にベンジンをしみこませ、石油ストーブの傍へ立てかけおいたために突然引火した。
当時、控室にはダンサー4人がおり、すぐに消火に係ったが、付近には衣類・小道具・ベンジンがあり、初期消火の効果なくたちまち舞台天井へ延焼拡大してしまった。
延焼経路は、(1)前記から大広間の天井裏へ延焼拡大、(2)舞台裏側直近にある4階までの直通階段を煙突状に上階へ拡大、(3)大広間天井の火災は、パラダイス大広間への連絡通路3か所より急速に延焼していった。
当日は、早朝から猛吹雪が荒れくるい、強風注意報が発令されていた。加入電話により熱海出張所に通報があり、ただちに出動したが約600メートルの位置にある磐光ホテル上が真っ赤に認められた。
到着したのは21時18分頃、磐光ホテルと磐光パラダイスは、火勢が1・2階全面に広がり、屋内進入は不可能な状態であった。ホテル正面2階に3名の要救助者を認めたので、2連はしごを活用して、2名救助、他の1名は見失ってしまったので(後にはしご車により救出)、部署し2線延長してホテル正面から防御。
次部隊はパラダイスの火点に対し一斉集中放水をしたが、当時の風速は平均20メートル、瞬間25メートルの北西の強風にあおられ、有効注水は極めて困難であった。
昭和41年の水上町の菊富士ホテル、43年の神戸市有馬温泉満月城、熱海町磐光ホテルの火災と止まることを知らない悲惨な温泉ホテル火災、火災が発生すれば必ず30余名の犠牲者がでる。マスコミはあげて警笛を鳴らし、関係機関は、法令改正していった。
厳寒の猛吹雪と強風の中での本消防隊の活動は「なぜ、人のために命をかけるのか」(中澤 昭著・近代消防社刊)紹介されています。
https://www.ff-inc.co.jp/syuppan/ippansyo.html
1月26日 広島県尾道市・湯浅内科病院火災
〔被害状況〕昭和49年1月26日10時48分頃、看護師(婦)が落としたエタノールをひたした消毒用脱脂綿に電気ストーブにより引火、そばにあったエタノール缶(18L)に引火した。鉄骨一部鉄筋コンクリート造7階、延べ1,550.488平米のうち339.40平米焼損、ほか、全焼7棟、半焼1棟、部分焼4棟、死者2人、負傷者22人。
〔発生状況〕病院2階の処置室において、総婦長が消毒用脱脂綿を作るために、床上で18L缶からビニールポンプでエタノールを500ccビンに移し替え、脱脂綿入れ缶に注いだ。脱脂綿入れ缶を持って立ち上がった際に右手が沸騰消毒器に触れて缶を落とした。電気ストーブが使用されていたため、落ちた消毒用脱脂綿に引火、18L缶にも引火した。
これを消し止めようと「消火器」と叫んで看護師に消火器を取りにやらせた。隣の診察室で患者を診ていた院長が聞きつけ、処置室をのぞくと床は炎につつまれていた。院長は、炎につつまれたエタノール缶を南側空地に搬出するため持ち上げたが、持ちきれず落としたため、エタノールが流失して一気に炎上拡大した。
出火を知った西隣の店主は、病院に隣接している自宅の3階へ駆け上ったが、すでに火は天井に達しており、全面に拡大、さらに西隣の3階へ延焼した。
病院2階の火災は、二方向から進入した消防隊により消火できたが、密集商店街の街区中央部の大規模木造建物へ延焼したため火勢はますます強くなり、この火勢により病院4階5階中央部の窓ガラスが破壊、サッシも溶けて病室へ逆延焼した。
出火当時、入院患者43人、付添7人、外来患者約50人及び従業員37人がいたが階段、避難器具等の利用。消防隊の救出などで避難ができた。
1月19日 神奈川県三浦市・三崎地区大火
〔被害状況〕昭和50年1月19日18時47分頃、火元は、三浦市三崎の振興漁業(漁業事務所と住宅併用)で、日曜日で事務所に出勤しているものはなく、住居部分の間貸人も不在であった。焼損棟数、全焼32棟、部分焼8棟、罹災世帯数48世帯(142人)、負傷者14人
〔発生状況〕第一発見者は、通行人で、すでに建物内部の全面にわたり火災が拡がり、窓や軒から火炎が噴出していたようだ。
最先着隊が到着したときは、火元建物はすでに棟を貫き、その北東側隣接家屋に延焼、炎上中で、火勢は、海からの強風に煽られ内陸方面に向かって延焼拡大の様態を示していた。
当地区は、海岸から内陸方面の北東及び東に向かって雛段式の街区を形成していて、街区内道路は極めて狭く、袋小路などもあり、ポンプ自動車等の進入はもとより、消防隊の進入路もことかくほど道路状況が悪い。
消防隊は、包囲体制を敷き、かつ区内に点在する防火建物を防火帯として活用し、局部的な消火方法をとり、火勢鎮圧に成功したが、家庭用プロパンボンべが過熱により随所で噴出あるいは爆発したため著しく消防活動を阻害し、鎮火まで相当長い時間を要すこととなった。
また、強風のため遠距離にわたり飛び火したが、近隣市の応援消防隊の一部が飛び火警戒にあたる一方、住民の積極的な防止行動により飛び火による出火は免れた。
1月6日 京都市・平安神宮火災
〔被害状況〕昭和51年1月6日3時10分頃、京都市左京区にある平安神宮拝殿西側の西翼舎内から出火、この翼舎内には、神事用具等が収納され、神事関係者以外の出入りはなく、また、この付近には火気設備、器具も全く設置されていないため放火と考えられている。焼損棟等は、本殿・拝殿等9棟全焼、東翼舎・神庫等3棟半焼。負傷者5人(消防職員の消火活動中の受傷)
〔発生状況〕平安神宮は、明治28年に創建され、京都市民はもとより、全国的に広く知られている名勝の火災である。建物(社殿等)が木造で、かつ連鎖状に建物が配置されているほか屋根のほとんどが檜皮葺であるなど、延焼しやすい構造であった。
火災の第一発見者は神宮西側道路を進行中のタクシー運転手で、無線により基地局を経由して119番に通報している。
消防隊到着時、12棟のほとんどの建物に延焼しており、炎上中の拝殿の南側約8m離れている大曲殿が輻射熱により白煙を噴出しはじめていたので、注水して延焼防止しながら鎮圧に努めた。
なお、消防隊が到着したとき、境内に進入するための応天門の開門が平素の訓練通りに行われず、消防隊が別の入り口から境内に入り開門するまで境内に入れず、部署等に相当の時間を要した。
また、西南西の風に煽られて、多量の火の粉が北東方面に飛散していたので、飛び火による出火危険を予測し、現場から概ね4km四方にある重要寺社及び民家の警戒のため別途消防隊を出動させた。
12月26日 東京都大田区
中華料理店「徐州」火災
〔被害状況〕昭和51年12月26日22時52分頃、2階建の複合用途建物1階中華料理店から出火、防火造2階建、建築面積108平米、延面積207平米のうち130平米焼損、死者4人、負傷3人、類焼4棟(部分焼)50平米焼損
〔発生状況〕出火建物は1階が飲食店と住宅、2階が麻雀荘と住宅で、2階麻雀荘への出入りは建物正面の中央にある階段が使われ、非常口として2階住宅への出入りも兼ねた建物裏側の屋外階段への出入口は、2階物置内にあり、しかもベニヤ板を打ち付け閉鎖してあり使用不能の状態であった。
中料理店閉店後、石油ストーブに灯油を補給するため、カートリッジタンクを取り出し1か所に集め、電池式の給油ポンプで給油を始めたが、その場から離れ売上金を整理している間に、灯油があふれ、これに気付いてポンプを取り外そうとあわてたため、そばの消火して間もないストーブの放熱網に灯油がかかり、着火し、床にあふれていた灯油に延焼した。
設置してあった消火器を使わず、これを足で踏み消そうとし、また、弟は近くに置いてあったコートを使って叩き消そうとしたが消しきれず、初期消火に失敗している。
2階麻雀荘の経営者夫婦が階下の騒音に気づき、妻が様子を見に階段を下りて、中華料理店が火災であることを知り、大声で火災を知らせ、夫婦そろって避難している。2階麻雀荘に残っていた客9人は、火災に気付いた時は、すでに濃煙と炎が階段を上昇、下りることができなかった、物置内の非常口に殺到したが、ベニヤ板で閉鎖され避難できなかった。
初期消火に失敗したうえ麻雀荘への連絡を怠ったため、麻雀荘の客が火災に気付いた時は、濃煙により避難路を経たれ、死者、負傷者を出す惨事となった。
12月19日 日立市・キャバレー
ゴールデンクィーン火災
〔被害状況〕昭和50年12月19日22時44分頃(覚知は望楼発見45分)、日立市クラブ・ゴールデンクィーンのクリスマスツリーから出火、簡易耐火造2階建、建築面積254.13平米、延面積508.25平米のうち2階254.13平米焼損、死者3人、負傷78人(火傷71人、打撲・挫傷7人)
〔発生状況〕出火建物は1階が飲食店、2階がキャバレーで、1階と2階は防火区画され、2階への出入りは外壁に設けられた客専用屋外階段(幅1.7m)と避難用屋外階段(0.6m)によっていた。
出火当時、客・従業員約107名が在室していた。ホールでショー番組二十日ネズミによるレースの開始直後に、ステージ前に置いてあったクリスマスツリーから出火、短時間の内にクリスマスツリー、垂れ幕、カーテン類など室内装飾品及び内装などが燃え、煙、熱気が室内に充満、多数の死傷者が発生した。
出火原因は、二十日ネズミを使用したレース開始の合図に使用するピストル(紙火薬)の火花が、クリスマスツリーの枝葉に掛けてあった脱脂綿に着火し、暖房で乾燥していたため瞬時に燃え上がり火災に至った可能性が強いが、ツリーに垂らしたライトの短絡等による電気的要因も考えられる。
火災は、多数の人の目前で発生したが、在館者の避難行動は、ツリーが倒れる前後に火災に気付き開始されたと思われる。火災に気付いた客が一時に客用出入口に集中したことから混乱状態となり、また、火災による熱気が異常な速さで出入口に達したため、この出入口から避難した者のほとんどが火傷などを負ったものと思われる。
12月5日 東京都墨田区・国松ビル
(サロン歌麿)火災
〔被害状況〕昭和51年12月5日0時33分頃、墨田区国松ビルの2階階段室から出火、耐火造地下1階地上4階建、建築面積105.5平米、延面積535.3平米のうち3階75平米焼損、死者6人、負傷2人
〔発生状況〕建物の用途は、地下1階がクラブ、2階がキャバレー、3階がサロンで1階は2階キャバレーの倉庫、4階は所有者の住居などに使用されていた。階段は東側に、2階へ出入りする階段と、西側に各階に通ずる屋内階段と、西側に3・4階に通ずる屋外階段があったが内部からベニヤ板等で塞がれ、使用不可であった。
出火時、各店は閉店後で客はなく、従業員が閉店後の店内の整理等を行っていた。
出火原因は、放火の疑いで、2階階段室(屋内階段の2階踊り場であるが、燃焼状況や延焼方向等からみて、タバコや電気関係の原因はうすく、踊り場内壁クロスあるいは壁体に立てかけてあった宣伝用ののぼりはたに人為的に放火した疑いが強い。)から出火し、階段室壁面に張ってある化学繊維の内装材を伝わって3階サロンに延焼、3階は無窓階で階下に通ずる唯一の屋内階段から延焼してきたため店内の従業員6名が逃げ場を失って店内に閉じ込められ消防隊によって救出されたものの一酸化中毒にかかり、病院に収容後全員が死亡した。
第1発見者の2階キャバレーの従業員は、ベニヤ等で塞いである西側屋内階段出入口から入ってきた煙で火災に気付き、東側屋内階段より避難し、周囲に火災を知らせるとともに、119番通報している。
なお、防火管理者の選任はなく消防計画も作成されず、共同防火管理に係る協議会も設置されていないなど消防法令違反があった。
11月26日 北伊豆地震
〔被害状況〕昭和5年(1930)11月26日4時2分頃、北伊豆地方を激震が襲った。この地震は、丹那断層の活動による内陸直下地震で、M7.3震源の深さは約2キロと極めて浅い地震で、被害は震度6を記録した伊豆半島北部から箱根にかけて大きく全壊家屋2,165戸、死者272人。
〔発生状況〕この地震は、顕著な前震活動を伴った地震で、第1期は、1930年(昭和5年)2月13日から4月10日頃まで東伊豆・伊東沖で群発し、一時的に沈静化したが5月8日から再び活発化し伊東を中心とした地域で群発地震が続いたが8月には終息した。
第2期は11月7日から始まり三島で無感地震を2回観測したのをかわきりに新たな群発地震が伊豆半島の西側で発生した、前震は数を増し、本震前日までに2,200回を超える地震を記録した。そして25日16時5分にM5.1(最大震度4)の前震があり、26日未明に本震が発生した。
前兆は前震だけではなく、各地で発光現象や地鳴りといった宏観異常現象があったとの記録が残されている。本震前日の25日午後5時ごろから本震発生後の26日午前5時ごろまでに、静岡県南部を中心に現れたのは発光現象で、調査によれば光の形はオーロラ状、色は青という報告が多かったという。また遠く離れた北関東や近畿地方では、地鳴りのような音が聞こえたという証言もあった。
地震の断層運動が注目されたのは、東海道本線(現・御殿場線)の新線(現・東海道本線)として建設中の丹那トンネルを直撃したからである。丹那トンネル函南口では、トンネル先端がまさに丹那断層付近に到達したところで、丹那断層の活動によって切断された。西側から掘られた坑道の先端部が北へ2.1m移動したのである。トンネルは当初直線で設計されていたが、この地殻変動で直線ではつながらないことになり、トンネルの中央部でS字にカーブするように修正された。
11月15日 福岡県宗像町(現宗像市)
団地火災
〔被害状況〕昭和48年11月15日7時18分 漏れたプロパンガスに引火爆発し火災となった。死者2人(火元隣室の主婦と幼児)、負傷者9人、鉄筋コンクリート造8階建のうち2階91.6平米、3階45.8平米焼損。
〔発生状況〕2階一室に居住しているノイローゼ気味の主婦が自殺をするつもりで就寝の際、プロパンガスのガス栓を開いて寝込み、それに気付かなかった夫が、翌朝7時18分頃タバコを吸うため布団の中でマッチを擦ったところ充満していたプロパンガスに引火爆発し火災となった。
隣室は鉄筋コンクリートの壁で区画されていたが、爆風により玄関の扉が破壊され、火災となり、又3階の上室及び1階の下室は床及び天井がぶち抜け、上階は火災となった。
耐火構造のアパートで、爆発により床がぶち抜かれ上階及び下階に被害がおよんだほか、隣の部屋の扉が破壊され被害が及び死亡したこと。各階2戸ずつが同一階段を挟んで対応する階段室型共同住宅であったため、下階での火災により階段が煙道となり階段による避難が困難となったことが、問題点としてあげられる。
11月7日 大阪府泉佐野市
市営団地プロパンガス爆発火災
〔被害状況〕昭和49年11月7日6時35分覚知・7時20分鎮火、死者5人、負傷者22人、全焼全壊1戸、全壊3戸、全焼1戸、付近建物、窓ガラス・建具家具等の破損
〔発生状況〕鉄筋コンクリート造4階建の3階一室で、同室人は死亡しているので確証はないが、同室の炊事場のガス元栓コックの開放その他家族の供述から自殺を目的とした故意による漏洩とも考えられている。
同室で漏洩したガスは、畳・床板の隙間を通り、2階と3階を水平に遮断するコンクリート床の工事用の穴(直径14~17ミリ、2ヶ所、工事完了時埋め戻しがされず、そのままになっていた)から2階の一室に流入、室内にガスが滞留し、同室内のガスレンジ点火による火花により引火して爆発炎上したもので、爆発によって床部、天井部などの防火区画、北西側壁体及び窓並びに南東側開口部(バルコニー)を一瞬に破壊し、炎上、火勢は急速に拡大したものと思われる。
死亡者は全員、避難行動を起こしたとは考えられない状態で倒れており、火災の拡大が極めて早く、全く逃げ場がなかったものと思われる。
10月23日 新潟県中越地震
〔被害状況〕平成16年10月23日17時56分頃 新潟県中越地方の直下(震源は川口町北部、地下約13キロ、M6.8)で激震が発生。川口町(現長岡市)で震度7、小千谷市、山古志村(現長岡市)、小国町(現長岡市)で震度6強、その他中越の市町村で震度6弱を記録した。死者68人(関連死含む。)、重傷632人、軽症4,163人、全壊3,175棟、大規模半壊2,167棟、半壊11,643棟、一部損壊104,510棟、約10万人を超える人々が避難生活を強いられた。
〔発生状況〕本震後の18時11分頃、小千谷市で震度6強、同34分頃、十日町市、川口町、小国町で震度6強の余震を観測するなど本震発生から6時間の間に、震度5弱以上10回、震度4が15回、震度3が19回、震度2以下の有感地震が119回発生するという異常な状態であった。
本震と余震の大きな揺れによって、多数の土砂崩れや崩壊が発生し国道を含む多くの箇所で土砂崩れと陥没によって道路が寸断され、山古志村は孤立し、芋川流域では大規模な河道閉鎖発生し東竹沢地区などで人家が水没するなどの被害が発生した。
また、緊急消防援助隊も派遣され、その1つの成果が、地震発生から92時間30分後2歳男児の救出である。母親、姉と乗っていた車が国道589号で起こった土砂崩れに車ごと巻き込まれていた。大きな余震が続く中で救出は困難を極めたが各援助隊のバックアップ体制が組まれ無事救出された。
10月15日 伊豆大島土砂災害
(東京都・大島町)
〔被害状況〕平成25年10月16日未明東京都大島町元町地区の上流域にある大金沢を中心とした渓流において、大規模な土砂崩壊による土石流が発生した。死者・行方不明者39人、負傷22人、全壊137棟、半壊57棟、一部損壊186棟
〔発生状況〕伊豆諸島へ接近する台風第26号の影響により大島町では16日未明から1時間に100ミリを超える猛烈な雨が数時間続き、24時間降水量が824ミリに達する記録的な大雨になり、元町地区の上流域にある大金沢を中心とした渓流で、大規模な土砂崩壊による土石流が発生した。
住宅地等の立ち並ぶ神達地区流下し元町3丁目、2丁目にかけて多くの土石流被害と、死者・行方不明者をだす惨事となった。
平成25年伊豆大島土砂災害の記録誌」は発生時の状況を「2時43分、町消防本部に、神達地区に住む町職員から「近所の家が我が家に突っ込んできた」との報告が入った。この報告が消防本部に被害を伝える第一報であった。
同50分に、消防本部職員と消防団員が状況確認のため、ポンプ車など2台で元町方面に向かった。この時、すでに雨が非常に激しく、確認に行った職員から、「家が流されている」「車両も動けない」との連絡が消防本部に入っていた。流木や多量の水で通行できず、また、消防車両に設置されている強力なライトをもってしても数メートル先が見えないという状態であったという。
一方、すでに現地に行っていた町消防団副団長は、元町橋付近で、家が流されていく場面に遭遇した。その報告を受けた消防本部も最初は信じられなかったという。ポンプ車等で現場確認に出動した消防本部職員や消防団員は、その間、付近にいた住民数名を救助し、大島医療センターに搬送していた。と伝えている。
10月8日 千葉県・市原市チッソ石油化学五井工場火災
〔被害状況〕昭和48年10月8日、22時7分ポリプロピレンを製造する工場で、補修のため取り外された配管に通じるバルブを誤って開放したため危険物が流出、引火爆発して、多数の死傷者を出し、爆風により隣接工場及び周辺住家等に被害を与えた。人的損害(死者2人、負傷者11人)、物的損害(工場建物、倉庫、電気室等7,108平方メートル焼失、精製塔、反応装置等焼損、危険物など72立方メートル焼失)近隣(一般住家14棟を含む半径1.5キロメートル内の窓ガラス、窓枠等が破損)
〔発生状況〕事故の前日から配管に詰まりが生じたので、反応装置の元弁を締めて配管が取り外されていた。この反応装置と一連をなしている別の反応装置で循環系に詰まりが生じたので、装置の元弁を閉めて詰まりの取り除き作業を行った。その後、装置の元弁を開放しようとしたとき、停電中で誤って配管が取り外してあった反応装置の元弁を開いたため大量の危険物が流出し、気化した蒸気が広範囲に拡がり引火火災となった。
爆発による爆風により各装置が破損してプロピレン、エチレン、水素等のガス及びヘキサンが漏えいし、これらに引火拡大した。
消防隊到着時、現場付近は黒煙とガスが立ちこめ二次爆発が遊離された。発災現状の確認と二次災害の調査を行い再爆発の恐れがないと判断されたので消防車両の接近可能限界を確認してから消火作業を開始した。
消防活動は、装甲車の放水砲による消火作業と、自衛消防隊と応援工場の消防隊による装置への冷却注水により、翌9日15時過ぎに鎮火になった。
9月25日 西武高槻ショッピングセンター火災(大阪府・高槻市)
〔被害状況〕昭和48年9月26日6時00分頃出火、6時27分覚知、死者6人、負傷者14人(うち消防職団員11人)、鉄骨鉄筋コンクリート造 地下1階、地上6階 延べ面積5万9,547平方メートルのうち2万8,679平方メートル焼損、出火原因は放火の疑い。
〔発生状況〕開店を数日後に控えた新築工事中の百貨店での火災、出火場所と考えられる地下1階ではガードマン4人と作業員9人が仮眠中であったが、“火事や”との声によって火災に気付いた。初期消火の形跡があるが、停電と煙のため避難するのが精一杯の状態であった。消防隊の到着時には、地下売場のエスカレーター付近が激しく燃焼中で、エスカレーターづたいに火焔が急激に上昇し、各階の防火シャッターが何れも開放状態であり、乱雑に存置された相当量の商品に燃えうつり、延焼を早め拡大させた。
消防隊は、出火点と思われる地階のエスカレーター付近に進入しようとしたが、煙が激しく、猛烈な熱気のため進入が不可能な状態であったので、やむを得ず入口付近から内部に向けて注水するとともに窓、開口部ばかりでなく四方の入口から進入して、2階、3階、4階への注水を行い鎮圧にあたった。
工事が完了していないのに、大量の可燃物(商品等)搬入されていたことと、消防用設備等がほとんど設置済であったが、電源の遮断、各階制御弁の閉鎖等のため機能を発揮する状態におかれていなかった。
9月16日 第二室戸台風
〔被害状況〕昭和36年9月16日、暴風と高潮による被害が大きく、大阪市では西部から中心部が浸水しました。死者194人、行方不明8人、負傷者4,072人、住家全壊15,238棟、半壊46,663棟、床上浸水123,103棟、床下浸水261,017棟
〔発生状況〕台風第18号は、12日から13日にかけて発達し中心気圧が900hPa未満の猛烈な強さの台風になった。沖縄の東海上を通過、15日朝奄美大島を通過、その後東北東に進み、16日9時過ぎ室戸岬西方に上陸、13時頃尼崎市と西宮市の間に再上陸、18時に能登半島東部に達し日本海にでた。
室戸岬では最大風速66.7メートル、大阪で33.3メートル、新潟で30.7メートルなど、各地で暴風となりました。
大阪湾では、最高潮位4.12メートルに達し、高潮による浸水で、海岸では大きな被害を受け、特に、大阪市では、福島区、此花区、港区の大部分、西淀川区、大淀区、北区、大正区、浪速区の一部におよび、床上浸水56,000戸、床下浸水60,000戸、被災者は26万人にもおよびました。
また、台風が通過した近畿地方と、吹き返しの強い風が吹いた北陸地方で暴風による家屋の倒壊等の被害が特に大きくなりました。
9月1日 関東大震災
〔被害状況〕大正12年(1923)9月1日11時58分 相模トラフで発生した海溝型の巨大地震(M7.9) 死者142,807人(行方不明43,476人を含む。)、負傷者103,733人、全壊128,266戸、焼失447,128戸、流失868戸、半壊126,233戸
・旧東京市、横浜市、横須賀市の大部分は焼失。津波は相模湾沿岸にあり、熱海、伊東などで4~5メートルぐらいの波高でした。
・地変は関東南部にあり、相模湾沿岸、三浦半島南部及び房総半島南部で1~2メートル隆起し、水平の移動はさらに大きい。
〔発生状況〕関東地方は、早朝に能登半島を通過した台風が、日本海沿岸から東北地方の南部を横断して、太平洋に抜けようとしていた頃に地震が起きました。台風はやや弱まって、温帯低気圧に変わっていた可能性もありますが、それに向かって強い南風が吹き付けており、東京周辺では風速10メートル以上に達していました。
このような気象状況の中、関東一帯が大激震に襲われ、丁度、昼食の時間帯であったこと、発火性薬品や危険物の転倒からの出火が原因で、東京市で136か所、隣接郡部市街地で40か所から出火、現在の東京都、神奈川県、静岡県、千葉県、埼玉県、山梨県、茨城県、特に、旧東京市と横浜市、横須賀市は震災に続く火災のため見る影もないまでに破壊されました。この火炎は3日間に渡って火災旋風を起こしながら被害を拡大させています。
このほか、山崩れ、崖崩れが多く発生し、沿岸には津波が押し寄せ多くの被害が出ています。
8月30日 東予市(現西条市)
日本マリンオイル工場火災
〔被害状況〕昭和50年8月30日16時45分頃、油清浄機室付近において爆発が起こり火災が発生。この爆発の際の処理油の飛散、熱風等により、死者8人(うち通行人2人)、負傷5人(うち通行人2人)、事業所周辺の住宅等の窓ガラス、スレート屋根、壁等に損害を与えました。
〔発生状況〕日本マリンオイルは、タンカーの油槽の洗浄油水等を再生処理する工場で、油処理作業工程の油洗浄機室(油水を分離する工程の屋)付近に滞留していたとみられる可燃性ガスが何らかの火源により引火爆発し、火災になったと推定されています。
小規模事業所の事故にもかかわらず、油洗浄機室附近にある油回収タンク等も火災となり、この爆発の際処理油の飛散、熱風等により、通行人を含め8人の死者を出す事故となりました。
また、この事故の爆風により、当該事業所を中心として半径約500メートルの範囲内にある民家、工場等に被害を与えました。
問題点として、当事業所は危険物施設としての完成検査を受けずに施設の開始をしていたものであり、また、技術上の基準にも適合しない施設でもありました。
8月23日 所沢市・山田倉庫
(ロール巻取紙等)火災
〔被害状況〕昭和49年8月23日11時20分頃、従業員又は関係者が喫煙しながら作業中、タバコの火がロール巻取紙の梱包紙に落下して着火、燻焼し出火したものと推定、鉄骨スレート張り屋根亜鉛引鉄板平屋建1,700平方メートル、周辺の畑の野菜
〔発生状況〕出火した倉庫は、同規模の倉庫が5棟あるうちの1棟であり、従業員が出火倉庫から品物を搬出するため、リフトに乗り3箇所の出入口のうち左側の出入口にきたところ奥の方が煙に包まれているのを発見。同時刻ごろ管理事務所に設けてある自動火災報知設備の受信機が火災を報知したため、7~8名の従業員が消火器7(粉末3、泡3、強化液1)本により放射しましたが、そのうち何本かは放射しなかったり、液がでませんでした。可搬式動力ポンプを始動しようとしましたが、始動せず、また、取扱になれていなかったためホース延長もままならず、初期消火に完全に失敗しました。
消防隊は、直ちに付近に水利部署し、火災防ぎょにあたりましたが、延焼拡大し、鎮火まで1昼夜という長時間を要した理由は、同倉庫にはコール・タール加工紙で防水包装されたロール巻取新聞用紙が立て積みに5~7段の高さに741本(2,757トン)という大量の可燃物があったこと。また、ロール巻取紙は水の浸透性がなく、消火の水を寄せつけなかったこと。
次に倉庫の屋根の落下により、上部からの注水効果がなく、燃焼中のロール巻取紙は重量があるため死角が多くでき、消火活動がきわめて困難であったこと。
三つ目は、同倉庫は建築基準法上の防火区画を施してあったのを取り壊し全体が一室となっていたため、次々に延焼拡大していきました。
また、消防法上は防火管理者を置く必要のない防火対象物でしたが、防火管理体制を整える必要がありました。
8月18日 岐阜県飛騨川バス転落事故
(8月17日豪雨災害)
〔被害状況〕昭和43年8月18日2時11分、国道41号線上で観光バス2台が土石流にのまれ飛騨川に転落、死者104人。
〔発生状況〕東シナ海を西に進んでいた台風第7号は、16日には対馬海峡を通過、日本海を進み、17日9時には北海道の西に達しました。寒冷前線が東北地方から北陸・近畿を経て九州付近にのび、それに向かって太平洋高気圧から温かく湿った空気が流れ込んだため17日夕方頃から各地で大雨となりました。
特に、岐阜県中部では、20時頃から18日未明にかけ1時間に100mmを超える雷を伴った大雨が降り、浸水や山がけ崩れが相次ぎ発生しました。
被害にあった乗客は、名古屋の会社が募集した「乗鞍雲上ファミリーパーティ」観光に参加のため、730人がバス15台に分乗して、8月17日夕方名古屋市内を出発しました。
出発時点では曇っていましたが雨は降っておらず、23時頃さしかかった下麻生(七宗町)あたりから激しい雷雨に遭遇、23時33分、休憩地の白川町の「モーテル飛騨」に到着しました。他車から得た情報によると、休憩地から1.5キロほど進んだ地点で両側車線をふさぐ大規模な土砂崩れで通行不能になっていることを確認しました。
そこで、旅行を中断して2グループに分かれ引き返すことになり、帰路、白川口駅付近にある飛泉橋を通過、ここで五号車の運転手が飛騨川の水位を警戒していた白川町の消防団に呼び止められ、前方は溢水や落石の危険があると運転見合わせを勧告されました。第1グループの先の車両は通過していたため追尾しました。第2グループは消防団の勧告に応じ白川口駅前広場で待機し、深夜の豪雨をやり過ごしました。
第1グループは、上麻生ダムを過ぎた地点で、大規模な崩落が生じ道路が完全に寸断されていたため、結局白河駅まで戻る途中で土砂崩れが発生、立ち往生となりました。
立ち往生から40分ほど立った2時11分、高さ100m、幅30mに渡る巨大な土砂崩れが発生、第1グループの五、六、七号車を直撃、七号車はガードレールに抑えられましたが、五、六号車は増水した飛騨川に転落、大惨事となりました。
この事故教訓として、一定の降雨量が記録された場合に、国道などを通行止めにする雨量通行規制が実施されています。
8月8日 東京都・新宿駅構内油槽列車火災
〔被害状況〕昭和42年8月8日1時45分、ジェット燃料8万リットルを積んだ車両等5両全焼、27時間以上にわたって中央線運行停止。
〔発生状況〕1時45分、新宿駅構内で山手貨物線から中央快速下り線への渡り線を進行中の立川行き貨物列車(タンク車18両、米軍燃料輸送列車)の側面に、氷川(現:奥多摩)発浜川崎行き上り貨物列車(ホッパ車20両)が停止信号無視して進入、タンク車の3両目付近に接触、タンク車3~6両目の4両が脱線・横転、そのうち4、5両目が転覆、衝撃でタンク車が破損し漏れた航空燃料に発生した火花が引火爆発を起こして、タンク車4両と衝突した機関車が炎上した事故です。
火災発生時には火柱が上がり真昼のように明るくなったと言われています。
なお、車両の引き離しなどで時間を要したうえ、タンク車が米軍保有のものであったため、国鉄側で油の抜き取りが出来ず、米軍の到着を待って作業することとなり、完全復旧したのは、翌8月9日の4時4分であり、実に27時間以上にわたって中央線は運行できませんでした。
当時の米国はベトナム戦争を継続中であり、運んでいたものは米軍横田基地向けの燃料であり、日本がベトナム戦争を間接的に支援していると言う世論、これを受けて学生運動や組合運動でのベトナム反戦運動のスローガンに付け加えられることとなりました。
この山手貨物線は上野駅と新橋駅(東海道線の起点)の迂線として(田端・赤羽~池袋~品川)作られ、貨物列車が走っていました。現在は、主に埼京線と湘南新宿ラインが走る線路となっています。
7月25日 長崎県 諫早豪雨(水害)
〔被害状況〕昭和32年7月25日 死者586人、行方不明者136人、負傷者3,860人、家屋の被害全壊1,564棟、半壊2,802棟
〔発生状況〕7月25日朝、黄海南部で低気圧が発生し、梅雨前線がいったん北上、佐世保市などに激しい雷雨をもたらし、その後、前線はやや南下して、15時頃諫早市と熊本市を結ぶ線に達して翌26日朝まで停滞しました。
そのため、長崎・熊本・佐賀の各県は、1日1,000ミリを超す記録的な集中豪雨に見舞われました。特に、諫早市の被害が大きく15時30分頃水防警報を発令、17時頃に本明川が氾濫し、朝日町で850戸が床上浸水しました。
しかし、諫早湾の満潮にあたる20時頃、本明川の水位は1m近くも降下し、いったん小康状態となった後、ふたたび激しい雷雨に見舞われ、20時から23時までの3時間で268ミリの強い雨になりましたが、雷への恐れも重なって住民の避難行動は鈍く、強い雨で本明川は再び急激に出水し、大量の土砂や流木を伴った激しい洪水が市街地を襲い、死者・行方不明者500人におよぶ多の犠牲者を出すことになりました。
25年後の昭和57年7月ふたたび梅雨末期の豪雨が襲い長崎市を中心に、死者427人、行方不明12人、負傷1,175人、住家全壊1,120棟、半壊1,919棟、床上浸水45,367棟等の甚大な被害を出し長崎豪雨(水害)と呼ばれています。
7月12日 北海道南西沖地震
〔被害状況〕平成5年7月12日22時17分頃、北海道南西沖、深さ34キロを震源とする、M7.8の地震が発生。奥尻で震度6(推定)、江差、小樽、深浦、寿都で震度5を記録しました。被害は北海道の日本海側を中心に、死者202人、行方不明28人、重傷83人、軽症240人、住家被害(全壊601棟、半壊408棟、一部損壊5,490棟)。
〔発生状況〕この地震の震源域の南東縁に位置する奥尻島をはじめ、渡島半島西岸の大成町、北檜山町、瀬棚町(現せたな町)などで大きな被害がでました。特に奥尻島(奥尻町)は津波、火災、崖崩れ等により死者172人をだす壊滅的な大惨事となりました。
地震動によってフェリー埠頭の東側の崖が高さ約90m、幅約120mに渡って崩壊し、ホテル、飲食店併用住宅、事務所、屋外タンク貯蔵所を押しつぶし、宿泊客など28人が死亡。
また、地震発生後5分程度で、奥尻島沿岸部は津波に襲われ、島南端の青苗地区は特に被害が大きく、津波に襲われると同時に火災が発生し、約11時間燃え続け、地区は壊滅状態となって、死者89人、行方不明22人に上りました。
津波警報は、地震発生後5分で発令されましたが、3分ほどで奥尻島の西側に襲来したとみられていて、高さは、西海岸の群来岬で22m、藻内で21m、青苗西部で10mと推定されています。また、日本海中部地震のときの7分と比較しても早く、気象庁は「近海で発生する地震については、地震発生後2~3分程度で津波警報等の発表を行うことを目標に所定の措置を講ずる」こととなりました。
7月7日 出光石油化学徳山工場火災
〔被害状況〕昭和48年7月7日22時13分頃出火。死者1人、精製塔、小タンク類、反応装置など94基延べ1,900平方メートル焼損、エチレン、プロピレン等約500トン焼失。直接被害がなかったが9工場が時短又は停止。
〔発生状況〕7月7日18時50分頃、第2エチレン装置の計器が一斉に変動し、作業員が点検したが原因がつかめず、緊急運転停止をして再度調査をしたが、原因が不明でした。
これは作業員が、プラントの計装用空気管バルブを他の空気管バルブと間違えて閉鎖したため、運転制御室の計器類が一斉に異常を示したもので、その後、誤操作をした従業員がバルブの操作の誤りに気付き、密かにバルブを正常位置に戻しましたが、誰にも報告をしませんでした。
運転制御室では、原因不明のまま計器類が正常に戻ったので、運転を再開しました。しかし、その後における措置が不適切であったため、プラント内で異常反応が起こり、これが原因となりガスの漏洩爆発が起こり火災に発展しました。この火災は鎮火まで約83時間を要しました。
6月18日 釧路市 オリエンタルホテル火災
〔被害状況〕昭和48年6月18日午前4時20分出火、鉄筋コンクリート造地下1階、地上6階建延べ面積5,736平方メートのうち868平方メートル焼損、死者2人、負傷者27人。
〔発生状況〕出火前日2回にわたる地震(震度5)のため列車が遅れ、宿泊客が3時40分頃まで出入りしており、フロント係が大宴会場とカクテルラウンジとの間の上方から火が見えたので火事だと思い、119番した後、消火器で消そうとしましたが濃煙と熱気が激しく消火器は使用できませんでした。
先着消防隊到着時、全館に煙が充満しているものと思われましたが、救助を求めている宿泊客は認められませんでした。3連ばしごを正面1階の屋上に引き上げ作業中4階で宿泊客が窓ガラスを破壊して救助を求めていたので、3連ばしごを伸悌、宿泊客6人を救助しました。また、3連ばしごと2連ばしごを連結して5階の宿泊客10人を救出しています。
1階出火付近から発生した火煙は、エレベーター、中央階段を経路として上層階へ急激に延焼中でしたが、屋内に進入した消防隊は、火勢の上層階への延焼阻止と制圧にあたり、1階中央の大宴会場とロビー部分の延焼に止めることに成功しました。
未明の出火で52人の宿泊客がおり、火災発生の放送も徹底せず、階段、廊下が濃煙と熱気で使用不可能となったため避難誘導がなされなかったという悪条件下でしたが、大惨事に至ることは免れました。
6月15日 明治三陸地震津波
〔被害状況〕明治29年(1896)6月15日午後7時半頃、三陸沿岸で震度階にして2か3程度のゆらゆらとした弱い揺れ、震源は三陸沖200キロメートル前後の海底でM8.2と推定される地震が発生。地震発生から30分あまり後、大音響とともに大津波が襲来、死者2万1,959人(岩手18,158人、宮城3,452人、青森343人)、流出家屋8,524、倒壊家屋1,844、船舶流失6,930と甚大な被害になりました。
〔発生状況〕津波の来襲状況について、三陸津波誌には次のように書かれています。「午後七時頃地震があった。強くはなかったが震動時間が長かった。十数分過ぎてからまた微震があって、それが数回続いた。海岸では潮の引くべき時間でもないのに引き潮があった。それからまた潮がさし、しばらくたって8時20分頃海の方から轟然と大砲のような響きが聞こえた。しかし、人々は軍艦の演習くらいに思い、気に留める者もいなかった。まもなく、すごい音響とともに黒山のような波が耳をつんざくばかりに怒号し、一瞬の間に沿岸一帯あらゆる全てのものを流し去ってしまった」。
津波は青森県から宮城県にかけての三陸太平洋沿岸を襲い、岩手県綾里村(現大船渡市三陸町綾里)で最高38.2メートルもの打ち上げ高(遡上高)が記録として残っています。
6月3日 長崎県 雲仙普賢岳大規模火砕流
〔被害状況〕平成3年6月3日午後3時頃、大規模な火砕流が発生し、地獄跡火口の東縁から水無川沿いに上木場付近の集落をのみ込み、火口から4キロを一気に駈け降りました。火砕流の通路となった山林や上木場地区などの家屋では火災が発生し、住宅49棟、非住宅130棟に被害が及びました。また報道関係者を中心に、警備に係わっていた警察官、消防団員などに死者・不明43人、負傷9人の被害を出しました。
〔発生状況〕雲仙普賢岳は、平成2年11月17日未明、「島原大変」と呼ばれた寛永4年(1792)以来198年ぶりに噴火、3年4月中旬以降は地獄跡火口が噴火活動の中心となり、大量の火山灰が山腹に堆積したところに5月15日からの大雨により水無川上流で土石流が発生し、小屋の流失、電柱の倒壊等の被害が発生したため、島原市北上木場町、深江町上大野木場地区の住民に避難勧告が出されました。
5月20日には地獄跡火口の中に溶岩ドームが現れ、徐々に成長し、24日に最初の火砕流発生が確認され、その後火砕流が多発し、特に6月3日の大規模火砕流で甚大な被害をもたらしました。
溶岩ドームは、平成5年3月17日に出現が確認された溶岩ドームまで、11の溶岩ドームが成長と崩落を繰り返しました。
災害の推移とともに警戒・避難勧告地域も拡大され、最大時、島原市で警戒区域2,028世帯7,134人、避難勧告19世帯74人、深江町で警戒区域868世帯3,601人、避難勧告943世帯3,804人、合わせて1万1,012人が対象となりました。
5月26日 日本海中部地震
〔被害状況〕昭和58(1983)年5月26日正午頃、秋田県沖西方100キロ震源とするM7.7の地震が発生しました。震源地に近い秋田、むつ、深浦(青森県)では震度5の強震を記録、この地震に伴い津波が北海道・東北から中国地方にかけての日本海沿岸に襲来、死者104人(うち津波により100人)、負傷者824人家屋の全半壊5,099棟ほか、港湾、船舶、水道、道路等の施設に大きな被害をもたらしました。
〔発生状況〕この地震による津波により秋田県男鹿市加茂の青砂海岸では遠足中の小学生ら13人が水死、また能代港では護岸工事の作業員34人が死亡しました。津波の襲来が秋田県、青森県沖では7分後と早かったことが、大きな被害を出す原因となりました。
このほか、秋田県、青森県、新潟県の石油コンビナートの石油タンク等で火災、亀裂による油漏れがありましたが、人的被害はありませんでした。
5月12日 千葉市 田畑百貨店火災
〔被害状況〕昭和46年5月12 日1時22分頃出火、鉄筋コンクリート造地下3階、地上8階建、9,380平方メートル半焼、死者1人、負傷者63人(消防職員)
〔発生状況〕1階(旧館)南側の外部で旧入口のシャッターに接した場所に、ひな段、造花、アーチ等が野積みされ、この付近から出火、シャッターに取り付けてあった郵便受けの穴から内部のベニヤ壁に延焼拡大したものです。
先着隊は、直ちに小屋に注水し鎮火させましたが、百貨店の1~4階の窓及び階段の小窓から煙が出ており、火災は4階までに達していました。
積載はしごを利用して、1~3階の北側の窓とその内張を破壊、さらに南側も破壊して内部進入をする方法をとりましたが、1階鎮圧後2階へ進入して約20分経過した頃フラッシュオーバーを起こし、一気に濃煙が建物全体を覆い、危険になったので一時後退しました。
アーケード、高圧電線のためはしご車が近づけず、高圧放水で窓の破壊を行いましたが耐水合板の内壁のため、ほとんど効果がありませんでした。2か所の屋内階段から進入して消火活動を行い6階以上への延焼防止には成功しました。
4月25日
兵庫県尼崎市 JR福知山線列車脱線事故
〔被害状況〕平成17年4月25日(月)9時18分頃、多くの乗客を乗せた通勤列車は速度を大きく超過したままカーブに突入し脱線、マンションに激突、死者107人、負傷者549人という大惨事になりました。
〔発生状況〕事故原因は、現場直前の伊丹駅に到着した際、同駅を60メートルほどオーバーランして停車したためバックして乗降させて、この遅れを取り戻そうとカーブを速度超過で通過しようとしたため曲がりきれず脱線転覆、線路脇のマンションに衝突しました。
列車の状況は、1両目は、マンション1階駐車場に飛び込み左側に横転し側壁に衝突してかなり圧縮された状態、2両目は、マンション角の柱に巻き付くように停止、横方向にかなり圧縮破壊された状態、3両目は4両目後半部分と2両目に挟まれた形で重複して並んでおり進行方向とは反対方向に向いて停止した状態です。
先着の消防隊が到着時にはすでに地元の住民や事業所の人たちが現場に駆け付けて患者搬送や応急救護活動が進められており、初期には消防隊と地元の人たちが渾然一体となって活動を展開しました。
マンション1階は、地下1層、地上2層の立体駐車で、飛び込んできた1両目の列車に追突された自動車からガソリンの漏洩事故が起こり、3線4口を延長し、泡放射を行い可燃性ガスの発散をおさえ、泡放射体制を維持しながら、爆発防止のため火花を発する器具の使用を控えバール、エアソー等の器具を使い細心の注意を払いながらの活動となりました。
2両目の車両は柱に巻き付くようにL字型に停止していたため活動可能なスペースがほとんどなく困難を極め、さらに、建物内という極めて狭隘な空間の作業であったことから活動終了は28日となり、時間を要しました。
地元尼崎市消防局による救助・救急活動をはじめ、兵庫県内消防本部による応援や近隣府県からも緊急消防援助隊の応援活動が行われました。
4月20日
青森市民病院小浜分院(精神科)火災
〔被害状況〕昭和48年4月10日14時20分 2階西側棟5号室押入付近から出火、出火時、強風波浪注意報、異常乾燥注意報及び火災警報が発令中という悪条件と入院患者が精神疾患を有する者ということが重なって、3人の死者を出しました。
〔発生状況〕出火当日、13時過ぎから、映写会が開催され、患者166人のうち113人が鑑賞中で他の患者は病棟に残っていました。
二病棟の看護師3人が詰め所で勤務中に、自動火災報知設備により火災を覚知し、非常ベルで病院内に知らせ、管理棟事務室の職員が119番通報をしています。
消防隊到着時、二病棟の中央部西寄り部分から火炎が、各窓からは黒煙が猛烈に噴出し、広場には多数の患者、職員が避難していました。
消防隊が、入院患者の避難状況を確認したところすでに全員が避難したとの情報を得ましたが、数分後病院側から、まだ病院内に3人の患者が入るとの報に、東側非常口から入り人命検索し、廊下東寄りに1人、病室に2人が倒れているのを発見、病院に収容するも約1時間後に一酸化炭素中毒死しました。
暖房用ダクト及び換気用ダクト(防火ダンパーの未設置)から病室等への煙の流動が速く、避難を妨げたこと、避難場所における人員の確認に手落ちがあったことなどが問題点として上げられています。
4月5日
東和アルミニウム工業所火災
〔大阪市・東和アルミニウム工業所火災〕
〔被害状況〕昭和48年4月5日17時5分アルミニウム切削屑を扱う工場火災、出火した切削屑に注水、火勢がほぼおさまったところ、突然爆発がおこり消火作業中の消防隊員ら41人(消防隊員13人、応急消火義務者1人、その他の者27人)負傷、焼損面積は、軽量鉄筋スレート葺きスレート張平家285平方メートルのうち屋根、側壁3平方メートル
〔発生状況〕出火建物は、住宅地の一角に建つアルミニウムの切削屑を取り扱う事業所で、フォークリフトで、切削屑を運び出す作業をしていたところ、出入口付近に取り付けてあったコンセントに切削屑が入り込み通電状態となって切削屑が発熱し、それに付着していた油(スピンドル油95%、灯油5%)が発火したものと推定されています。
到着消防隊が、出火した切削屑の山に注水し、火勢がほぼおさまった頃、突然、爆発音と同時に、あたり一面白い炎を伴った白煙に覆われ、消火作業中の消防隊員らが重軽傷を負いました。
工場が移転直前であったため、整理整頓がされていなかったことと、責任者以外従業員は、アルミニウム切削屑に対する性状、数量に対する知識がなかったことがあげられます。
3月19日
老人福祉施設 静養ホームたまゆら 火災
〔群馬県渋川市・老人福祉施設「静養ホームたまゆら」火災〕
〔被害状況〕平成21年3月19日22時45分頃出火、木造平屋建て3棟、本館104.21平方メートル、別館1:192.0平方メートル全焼、別館2:99.9平方メートル半焼、その他隣接建物3棟部分焼、在館者17人の内、死者10人、負傷1人
〔発生状況〕深夜、敷地内北側に位置する別館1の西側付近から出火、夜間の職員が1人であり、小規模な建物で自動火災報知設備が設置されていなかったことから、火災の早期に発見して、避難誘導等を行うことが極めて困難でした。
消防への通報も帰宅途中の住民が「パチパチと竹を割るような音」を聞いて振り返ると、炎が10メートルぐらい上がっているのを発見して通報しています。
また、建物が木造建築物であり、さらに増築等もされていたことから、火災の延焼拡大が極めて早かったことなどが被害を大きくしたと考えられています。
平成18年の認知症高齢者グループホーム火災を契機に、自力避難困難者が入所する小規模社会福祉施設にスプリンクラー設備の設置基準の引き下げ、自動火災報知設備等の設置義務づけ等の強化が図られました。
3月8日【済生会八幡病院火災】
〔北九州市・済生会八幡病院火災〕
〔被害状況〕昭和48年3月8日3時21分頃(覚知は51分)、産婦人科外来診察室から出火、鉄筋コンクリート造地下1階地上5階一部木造モルタル2階、延べ面積6,270平方メートルのうち888平方メートル焼損、死者13人、負傷者3人
〔発生状況〕3時30頃産婦人科外来診療室で寝ていた医師が、足下が熱くなって目を覚ましたときベッドのすぐ脇に横に引いてあったカーテンが燃えていました。上衣をとり叩き消そうとしましたが、ますます燃え拡がるので洗面所に行き、洗面器に水をくんで2回掛けましたが、火勢が衰えないため大声で看護師を呼びました。
叫び声で、1階にいた看護師、守衛及び3階にいた当直医が駆けつけ、粉末消火器3本と屋内消火栓を使って消火に当たりましたが、すでに天井裏にまわって火を消すことができず放水中の守衛以外は、2階の重傷患者の救出に当たりました。
4階にいた看護師は、3時30頃、自火報のベルが鳴りましたが、しばらくして止まったので誤報と考えていました。そのうちエレベーター脇のナースステイション天井から煙が噴出して来たので、身近なところの患者を避難させました。
消防隊到着時、2階の重症患者の内8人は看護師により救出されており、41人が残されていました。救助隊2人1組で患者を敷き布団ごと、準備ホールまで搬送し救出しました。集中ケアー前のホールとの区画が防煙の役目を果たしていたこと等により全員が救出されました。
3階部分は、患者93人がいましたが西側に130平方メートル程度の屋上庭園があり、比較的早い時期にこの部分に避難しました。
4階の患者92人中、55人はスノーケル車、はしご車と特別救助隊との連携によって救出、他の11人の患者は濃煙を突破することできず窒息死しました。
夜間における病院火災で、消防機関への通報が著しく遅れる(出火推定時間から30分)等防火管理体制が不十分であったこと及び防火区画が十分でなかったことなどが、多くの死傷者を出した原因とされています。
3月1日 【池袋朝日会館火災】
〔東京都・池袋朝日会館火災〕
〔被害状況〕昭和50年3月1日2時35分頃、建物2階の純喫茶から出火、鉄筋コンクリート造地下2階地上7階、一部木造及び鉄骨造6階建、建築面積350.39平方メートル、延面積1,618.55平方メートルのうち881平方メートル焼損、死者5人、負傷者18人(うち消防職員2人)
〔発生状況〕出火時、建物内には26名おり、3階(麻雀荘)11名、地下1階(料理店)3名を除き、11名は5・6階(寄宿舎)に、残りの1名は出火場所と思われる2階(喫茶室)で就寝していました。
出火場所と思われる2階の喫茶店にて就寝していた従業員によると、異常に気付いたときは、室内は火煙につつまれていて、避難するのが精一杯で初期消火、通報などを行う余裕はなかったと話しています。
この建物には、自動火災報知設備が設置されていましたが、受信ベルは地下2階の無人の部屋に配置され、これを停止状態にしてあって、感知されていませんでした。また、各階ごとの防火区画がなされていないほか、冷暖房用シャフトに不備があったため、階段及びシャフトが上層階への延焼経路及び煙の流動伝播経路になって立体的に急速な延焼をたどったと推測され、多くの死傷者を出しました。
2月16日
大協石油㈱四日市製油所灯油タンク火災
〔四日市市・大協石油(株)四日市製油所灯油タンク火災〕
〔被害状況〕昭和50年2月16日午後3時5分頃、コンルーフ灯油タンク(2万2千キロリットル、直径50メートル、高さ12.228メートル、油量1万1千773キロリットル)から出火。鎮火まで約4時間半を要しました。
〔発生状況〕出火したタンクは、常圧蒸留装置で製造された灯油分を貯蔵し、水添脱硫装置に送るためのタンクで、出火原因は、収納されていた灯油は、精製工程に発生した硫黄分の多い気体を含んでいたため、タンクが腐食し、さびに吸着していた油に衝撃等による何らかの火源から着火し、火災に進展したものと推定されました。
四日市消防本部は、火災タンク側板への冷却注水を行うとともに防油堤内に泡放射を行い、コンビナート内の自衛消防隊に応援要請をしました。また、桑名市を始め近隣の消防機関も自主的に応援出動し、火災タンクに隣接しているタンクに固定消火設備で泡消火薬剤を送入し油面の表面を泡で覆うとともに、油の抜き取り及び近隣タンクへ冷却注水を行いました。
製油所内にある他のタンクに拡大すれば、近隣住民に被害が出る恐れがある火災でした。
2月6日【札幌市・白石中央病院火災】
〔被害状況〕昭和52年2月6日午前7時40分頃、札幌市にある白石中央病院第1診療室から出火、木造2階建の旧館648平方メートル焼失、新生児3名を含む4名焼死。
〔発生状況〕出火原因は、同病院のボイラーマンが当日の朝、第1診療室の暖房用蒸気パイプドレインの凍結を溶解するため、室内から身を乗り出して、トーチランプでパイプを暖めようとして、その炎によって、モルタル壁の下地に着火したことに気づかず、作業を続けたため燻燃状態を経て、出火延焼したもの。
自動火災報知器の警報ベルで、1階事務室にいた夜間警備員と患者付添人は、第1診療室に駆けつけ、付添人は付近にあった消火器を使用し初期消火に当たりましたが、効果がなく、消火をあきらめ、患者である自分の妻を避難させるため、2階へ向かいました。
夜間警備員は火災の状況を見て狼狽し、居合わせた給食係職員に通報するよう依頼してそのまま退避しました。
2階には、見習い看護師と助産師が当直していましたが、誤報と思い込み、避難誘導などの行動が図られませんでした。その後、急激な煙の上昇に気づいた2人は避難を呼びかけ、新生児室の6人の新生児のうち3人の避難を図りましたが、2階非常口は施錠されており、非常口横の窓から屋外非常階段に出て、窓越しに新生児を受け渡して避難させ、残してきた新生児を避難させるため戻りましたが、すでに2階部分にも延焼し、煙に阻まれ救出できませんでした。
死者を出す火災となった原因としては、夜間警備員、当直看護師が、パニックに陥り、有効な避難行動がとれず、初期消火に失敗したことが挙げられます。
1月26日【法隆寺金堂火災】
〔昭和24年1月26日午前7時頃、奈良県斑鳩町の法隆寺の国宝建築物・金堂から出火〕
〔被害状況〕金堂内陣が全焼、国宝の十二面壁画の大半が焼損
〔発生状況〕昭和24年1月26日午前7時頃、奈良県斑鳩町の法隆寺の国宝建築物・金堂から出火し、金堂内陣が全焼し、和銅年間(奈良時代)につくられたと推定される12面の壁画が焼失しました。12面の壁画のうち阿弥陀浄土図などは、インドのアジャンタ壁画と並ぶ、世界的な仏教壁画として知られていました。
火災時、金堂の屋根は焼き抜かれ、火の粉があがりましたが、当時、法隆寺には91基の消火栓があり、裏山の大貯水池との落差は200mを活用して水圧が強く、五重塔の屋根に飛んだ火の粉は消し止められ、延焼はまぬがれました。
法隆寺は現存する木造建築物のうち最古のものといわれていますが、建物の老朽化、金堂壁画の剥落が進み、文部省は昭和9年に法隆寺国宝保存事業部を設置して、昭和の大改修と呼ばれる保存事業を行いました。この事業は戦争の激化に伴い一時中断されましたが、昭和22年から金堂壁画の模写が再開され、その作業時に画家たちが使用した暖房用電気座布団の加熱が出火の原因として濃厚な疑いがもたれました。
火災直後の昭和24年2月27日には、愛媛県松山市の国宝・松山城で火災が発生しました。相次ぐ国宝火災を重視した文部省は、国宝保存法、重要美術品等保存に関する法律、史跡名勝天然記念物保存法をひとつに統合し、文化財を保存し、その活用を図って国民の文化的向上に資する目的の法律として文化財保護法を翌25年5月に制定しました。
さらに、昭和29年1月3日に金堂修復に伴う法要が行われましたが、文部省はそれを受け、翌30年から金堂火災が起きた1月26日を「文化財防火デー」と定め、毎年、全国の消防機関と共に文化財防火を呼びかけ、防火・防災訓練を行うこととしました。
法隆寺金堂火災直後、金堂に自動火災報知設備があれば、壁画の焼失はまぬがれたのではないかという指摘がありました。法隆寺には当時、金堂には未設置であったものの、10基の自動火災報知設備がありました。しかし、消防庁の調べでは、10基とも故障中でありました。昭和41年12月の消防法施行令の一部改正で、重要文化財建造物への自動火災報知設備の設置が義務づけられましたが、それまでには、昭和25年7月の金閣寺放火火災、31年の比叡山延暦寺大講堂火災、昭和41年の大徳寺方丈火災など、国宝、重要文化財の火災があり重要な文化財が焼失しました。
1月23日【38豪雪】
〔昭和38年1月から2月にかけて、新潟県から京都府北部の日本海側を襲った雪害〕
〔被害状況〕死者231人、負傷者356人、家屋の全半壊1,717戸
〔発生状況〕昭和38年1月から2月にかけて、新潟県から京都府北部の日本海側を襲った雪害、いわゆる「38豪雪」は戦後最大の風雪災害です。
昭和37年暮れの25日頃を境に、まとまって降り出した雪は、昭和38年1月3日頃から冬型の気圧配置が強まって北海道・東北は猛吹雪となりました。5日には秋田沖で低気圧が988ヘクトパスカルと猛烈に発達し本州は大荒れとなり、富山県では60戸が全半壊しました。
このあと日本海側は大雪となり、北陸・上越の国鉄(現JR)は連日不通、運休が続きました。16日に新たな暴風で北海道、青森で漁船が遭難、一方、太平洋側は厳しい寒波に見舞われ、17日東京の最低気温は氷点下5.3℃、19日には湿度9%まで下がりました。このためガス漏れによる火災、水道管の破裂が続出しました。
さらに20日には、低気圧が山陰沖から三陸沖に抜けて978ヘクトパスカルに発達したため、長野県伊那谷で1,600戸が屋根を抜き飛ばされる等の被害を受ける”冬はやて”が発生しました。
その後、低気圧がゆるんでいわゆる山雪型から里雪型に変わり、23日から27日にかけて北陸一帯は大雪で、鉄道をはじめ交通機関が全てマヒ、26日には自衛隊の出勤となったほか、23日夕方に新潟駅を出た列車は6日間を要し上野駅に着いたのは28日朝になりました。
この大雪による最深積雪量は、長岡市318センチメートル、富山市185センチメートル、福井市213センチメートル、東京では26、27両日に氷点下5.5℃の最低気温を記録しています。
1月9日【川崎市・金井ビル火災】
〔昭和41年(1966)1月9日午後0時58分、神奈川県川崎市本町の鉄筋コンクリート造地下1階地上6階建てビルの3階・キャバレー女性従業員更衣室から出火〕
〔被害状況〕死者12人、負傷者14人
〔発生状況〕昭和41年1月9日午後0時58分、神奈川県川崎市本町の鉄筋コンクリート造地下1階地上6階建てビルの3階・キャバレーの女性従業員更衣室から出火、4階の営業終了後のフロアで宴会を行っていた男性従業員が駆けつけましたが、初期消火に失敗し、火は3、4、5階の延641平方メートルを焼損し、5階と6階にいた者のうち12人が逃げおくれて一酸化炭素中毒で死亡し、14人が負傷しました。
金井ビルは、地階が喫茶店、1、2階がパチンコ店、3、4階がキャバレー、5階が事務所と経営者住居、6階が従業員宿舎、屋上にプレハブ住宅が建てられており、典型的な雑居ビルという複合用途の防火対象物でした。
火災が比較的小規模だったにもかかわらず、多数の犠牲者を出した特異性が注目されました。警報整備のスイッチがOFFで火災に気づくのが遅れたこと、消防機関の通報が遅れたこと、消防管理者が消防訓練や適正な消防設備の保守を行っていなかったことなど、指摘された問題点はこのあとの同種ビルの火災でも繰り返されることとなります。また、当時の梯子車が全伸梯17メートルで、5、6階への侵入ができず、建物の高層化への対応の遅れも消防の課題となりました。
この火災では、焼損のない階にいた12人がダクトを通ってきた煙によって、一酸化炭素中毒死しました。このことから、煙制御の問題が大きく論議されることになりました。そのような中、耐火建造物における人命安全には煙制御が必要であること、建築物の竪穴を区画することが必要であるといった結論が、建築学会大会等で出されました。また、建築物の内装材の火炎伝播や新建材の燃焼時の有毒ガス発生の問題から建築材料の燃焼時の特性についても研究が進みました。これらの知見に基づいて、昭和44年の竪穴区画、昭和45年の排煙設備の規定など、建築基準法の大改正につながりました。
1月2日【タンカー・ナホトカ号原油流出事件】
〔平成9年(1997)1月2日午前2時51分頃、中国・上海からロシア・ペトロパブロフスクへ向け、航海中の、ロシア船籍タンカー・ナホトカ号が島根県隠岐島沖で船体を破損し、船尾部が沈没し、船首部分が漂流した〕
〔被害状況〕死者1人、島根県から秋田県の沿岸に漂着、環境、漁業に甚大な被害。
〔発生状況〕平成9年1月2日午前2時51分頃、中国・上海からロシア・ペトロパブロフスクへ向け、航海中の、ロシア船籍タンカー・ナホトカ号が島根県隠岐島沖で船体を破損し、船尾部が沈没し、船首部分が漂流するという事故が起きました。
これにより乗員1名が死亡し、積載していた重油19,000キロリットルのうち、破断タンクから6,240キロリットル(推定)が流出し、船首部分には2,800キロリットル(同)を残したまま漂流しました。
流出した原油は荒天続きで海上で油処理剤をほとんど散布できなかったこともあって、1月7日朝、福井県三国町の安島岬付近の海岸に漂着し、ついで石川県加賀市の海岸に漂着しました。同7日午後2時30分頃には、漂流していた船首部分も三国町安島岬沖1キロメートルの岩場に座礁し、新たな流出源となりました。
油は対馬海流に乗り、さらに広がり、富山県をのぞき島根県から秋田県までの日本海側1府8県の海岸に漂着しました。
漂着現場では一部でバキュームポンプを使用した油回収作業も行われましたが、海岸が断崖であったり、回収機材が漂着場所へ接近困難で、バケツ、ひしゃくを使った人海作戦に頼らざるを得ませんでした。この作業には、消防職員、消防団員、町職員、漁業関係者など地元住民のほか、28万人を超えるボランティアなどが参加しました。しかし流出した原油は精製過程の最後の段階に出来る不純物の多いC原油で、キシレン、エチルベンゼンなど危険物による健康被害も考えられ、作業は困難を極めました。
回収作業にからんで、過労などが原因で4人が死亡するという、痛ましい犠牲もありました。自治省消防庁も、衛星中継を利用した画像伝送システム等の機能を有する現地活動支援車を派遣するなど、活動の支援を行いました。
福井県三国町も3月いっぱいでボランティアの受け入れを終了し、被災各地も順次これに続いて終了、約3カ月にわたる、困難な回収作業でありました。
12月26日【らくらく酒場火災】
〔昭和51年12月26日午前1時30分頃、沼津市の複合用途三沢ビル(耐火)1階から出火〕
〔被害状況〕死者15人、傷者8人
〔発生状況〕放火の被疑者の供述によると「入り口ドア内側階段の上がり踊り場に段ボール箱を持ち込んで火を着けた。」出火した火勢は、壁面の可燃性クロス張りの板を伝わって延焼し、階段室内を爆発的に延焼させ、この爆燃により(1階出入口ドア近くにいた通行人が火傷を負っている。)、2階「らくらく酒場」店内に延焼拡大し、多くの死傷者を出しました。
当ビル1階から2階に通じる階段の1階及び2階の出入口には扉があり、1階階段室で段ボールが燃え、可燃性クロス張りの内装材等に着火して発生した燃焼生成ガス(可燃ガス)が充満しました。このような事態のとき、通行人が1階入り口扉を少し押し空いたため、爆発的(通報者は「爆発しています」と付け加えている。)に延焼しました。また、2階入り口扉は閉められていたため、煙は隙間から徐々に侵入しましたが、煙に気づいた者が扉を開いたため、一斉に猛煙が室内に流れ込んで、15名が煙に巻かれて死亡する惨事となりました。
2階開口部が装飾用の内装材により、封鎖されていたため、避難上及び消火活動の障害になりました。また、屋外階段に通じる非常口前にロッカー、植木等が置かれていたため、避難障害となりましたが、支配人とホステス3人は屋外階段から、酒場主任とホステス2人は屋外階段から3階に上がり、窓から北隣りの木造2階建ての屋根に飛び降り避難しました。避難できた者はいずれも建物の構造をよく知っている従業員であり、客は全員死亡しています。
12月18日【三菱石油(株)水島製油所重油流出事件】
〔昭和49年12月18日午後8時40分頃、岡山県倉敷市の水島臨海工業地帯で、三菱石油(株)水島製油所の公称容量5万キロリットルの屋外タンクの底板が裂けて、65~95℃の温度に加熱された重油4万2,888キロリットルが噴出〕
〔被害状況〕流出油は岡山県沿岸から、さらに対岸の香川、徳島の両県域までおよび、瀬戸内海東部一帯に深刻な海洋汚染を引き起こしました。海上流出量は7,500キロリットルないし9,500キロリットルと推定され、内海への原油流出事故としては世界最大級の規模となり、瀬戸内海の養殖ハマチ、海苔、牡蠣などの水産業に約168億円の被害を与えました。
〔発生状況〕重油は同タンクに設けられた鉄製の直立階段を基礎もろとも押し飛ばし、防油堤上に叩きつけました。そのため、長さ約7.3m、高さは最大部分で頂部から基部へ約1mにわたって防油堤が破壊され、工場構内に重油が流出し、さらに排水溝や9号桟橋付近から水島港へと流出しました。これに対し、港内の数カ所にわたってオイルフェンスの展伸等が行われましたが、事故発生の翌19日夕方には水島港外に流出して、日時の経過と共に広範囲に広がり岡山沿岸はもとより、香川県、徳島県等瀬戸内海東部一帯に及びました。
石油コンビナート地帯の総合的な防災対策の必要性から、昭和50年2月「石油コンビナート等災害防止法案」の立案作業に入り、同法は昭和50年12月公布、昭和51年6月より施行されました。
12月6日 【蒲原沢土石流災害】
〔平成8年12月6日午前10時30分頃、長野県、新潟県の県境に位置する蒲原沢の長野県側・小谷村湯原の国境橋附近で大規模な土石流発生〕
〔被害状況〕死者13人、行方不明者1人、負傷8人
〔発生状況〕平成7年の梅雨前線豪雨災害に伴う新国界復旧工事の現場作業員が巻き込まれ、死者13人、行方不明者1人、負傷者8人を出す惨事となった。科学技術庁の調査によれば、標高1,300m地点の土砂崩壊が引き金になって土石流が発生したとみられている。蒲原沢に建設中の新国界橋近くの標高350mまでの約2.7㎞を約3分で流れ下り、土石流の平均速度は時速54㎞と推定された。
消防庁は災害発生後、即座に消防庁次長のもとに災害対策連絡室を設置し、さらに新潟、消防庁職員を先遣チームとして3名を現地に派遣し、さらに新潟、長野両県からの要請を受けて、東京消防庁、名古屋市消防局に対し、緊急消防援助隊としての出勤を要請した。東京消防庁は47名、名古屋市消防局は7名の隊員を、最新の資機材とともに派遣した。緊急消防援助隊は阪神・淡路大震災を教訓として平成7年6月30日に発足したが、これが最初の出勤となった。
11月16日【世田谷電話局洞道火災】
〔昭和59年11月16日、東京都世田谷区太子堂の、通信ケーブル専用洞道内で発生した火災〕
〔被害状況〕世田谷区、目黒区の一般加入電話8万9,000回線、テレックス専用線4,000回線が不通。また世田谷区内に全国のオンライン集中事務局センターを置く三菱銀行や、東日本地域の支店を結ぶ拠点をおいていた大和銀行のオンラインシステムが麻痺し、住民生活、経済活動に大きな支障をきたした。また119番、110番の緊急通報も不能となり、高度情報化社会の意外な脆さを白日にさらした火災だった。
〔発生の状況〕午前11時46分頃、世田ヶ谷電報電話局前の、通信ケーブル専用洞道内で火災が発生し、直径7センチメートル通信ケーブル98本、164メートルを焼損した。出火の原因は、ケーブル補修工事のバーナーの火がぼろ布に引火し、それがさらにケーブルのポリエチレン被覆に移ったためだった。
洞道内は濃煙に満ち、これに含まれる火災ガスが消火活動を大きく阻害し、また注水に対して強烈な熱風が吹き返すという状況で、消防隊の活動は困難を極めた。しかし、消火用筒先を配置し、30分以上の時間をかけて1メートル前進するという粘り強い消火活動の結果、覚知から16時間45分後の翌17日午前4時37分に鎮火した。
自治省(総務省)消防庁では庁内に「洞道等に関する消防対策検討会」等を設け、消防対策を検討し、洞道等の占有者等に対しては出火防止対策、ケーブルの延焼防止対策等の推進を諮るよう指導したほか、火災が発生した場合の消火活動に重大な支障を生じるおそれのある洞道等について市町村の火災予防条例規則により、届出を義務づける等、安全対策の推進を図るよう指導した。
11月6日【北陸トンネル列車火災】
〔昭和47年(1972)11月6日午前1時13分頃、北陸トンネル内で急行列車の火災〕
〔被害状況〕死者(乗客29人、乗員1人の計30人)、負傷715人。
〔発生の概要〕福井県敦賀市葉原の国鉄(現JR)北陸本線敦賀―南今庄駅間にある北陸トンネル(全長13.87キロメートル)内を時速60キロで進行中の、大阪発青森行きの急行「きたぐに」(乗客761人)の11両目の食堂車で火災が発生した。乗客からの通報を受けた車掌は非常停止の手配を行い、列車はトンネル内の敦賀方向入口から約5キロの地点で停止した。はじめ列車関係職員が消火に努めたが困難となり、また火災の影響で停電も発生、トンネル内には煙と熱気が充満し、多くの死傷者を出す惨事となった。
当時の国鉄のマニュアルによれば、「火災発生時はただちに停車し、出火車両を切り離す」こととなっており、とくにトンネルの内外の区別はなかった。乗務員は、忠実にこのマニュアルを実行に移したのだが、かえってそれが長大トンネル内の列車火災という事態を招き、避難誘導に時間を要したため、煙とガスによる被害を大きくしてしまった。事故後、国鉄はただちに鉄道火災対策委員会を組織し、また実際の車両を使ったトンネル火災実験を行い、同種の災害に対する対策を練った。その結果、1)車両の不燃化、難燃化の促進、2)トンネル内で万が一火災が起きた場合は停止せず、出るまで突っ走るの2点を骨子とする改革案を定め、実行に移した。
11月2日【旅館池坊満月上火災】
〔昭和43年(1968)11月2日、神戸市兵庫区(現北区)有馬町の観光旅館・池之坊満月城の火災〕
〔被害状況〕宿泊客ら死亡30人、負傷44人、焼損面積69,500平方メートル、損害額は2億515万円にのぼった。
〔発生の概要〕日本最古泉といわれる有馬温泉の、観光旅館・池之坊満月城の地下1階から午前2時30分頃に出火。同旅館は、無計画な増築を行い、数棟の建物を連結して一棟の建造物とした「鉄筋コンクリート造一部軽量鉄骨モルタル塗、地下3階一部4階、地下2階建」という複雑な重層構造で、さらに出火点が地下1階だったためドラフト現象を起こし、上層への開放部分から延焼が急速に進み、多くの死傷者を出す火災となった。
同旅館の自衛消防隊の編制は昼間のみで、火災が起きた夜間の体制は数名規模のため火災の感知が遅れ、その後、バケツによる初期消火が若干行われたが、屋内消火栓等を使っての効果的な消火活動がなく、また従業員による避難誘導も不徹底だったために被害が拡大した。神戸市消防局はこの火災以前に十数回の警告を行っていたが、池之坊満月城では自動火災報知装置を全館にわたっての設置を怠っていた。建物自体の複雑な構造のほかに、内装材が可燃材料であったことも、火の回りを速くし、煙の量も多くした。
さらに28分後という通報の遅れがあり、消防隊の到着時にはすでに広範囲に延焼し、別館「吟松閣」の1、2階、本館「中の丸」の部分は火の海で、破した窓から隣接する建築物の看板に炎が吹きつけ、延焼寸前の状態で守勢的防ぎょをせざるを得ない状態だった。
10月29日【酒田市大火】
〔昭和51年(1976)10月29日午後5時40分頃、風雨波浪注意報の発令下酒田市繁華街の中心地・映画館グリーンハウスから出火。折からの平均風速20m以上の強風に煽られ大火となった。〕
〔被害概要〕死者1人(消防長)、負傷1,003人、罹災世帯1,023世帯3,301人、焼損棟数1,774棟、焼損面積152,105平方メートル
〔発生の概要〕酒田市中町2丁目の映画館グリーンハウスから出火。火元建物が大型木造建築物であったため火の回りが早く、初期消火が困難であった。火災の初期においては隣接の大沼デパート棟の耐火建築物に阻止され徐々の拡大であったが、折からの平均風速20m以上の強風に煽られ、木造の可燃性の高い建物に接火着火し、そこからまた熱放射、飛び火による着火を繰り返し、単独あるいは複合して火災が広がり、中町から二番町、一番町、新井田町の街区へ延焼、翌30日午前5時頃の鎮火まで、約11時間燃え続ける大火となった。
この火災は、戦後毎年繰り返し発生した大火が、昭和44年5月の石川県加賀市で発生した焼損面積33,810平方メートル以来、大火ゼロを保ってきただけに関係者に大きな衝撃を与えた。
強風下での消防力の限界等の問題も指摘され、強風下の警戒態勢(非常招集、待機等)に万全を期し、住民に対する協力要請を徹底し、早期通報と同時に、住民の協力による初期消火に努めることが、教訓として挙げられた。
10月26日【西宮LPGタンクローリー転覆火災】
〔昭和40年(1965)10月26日3時15分頃(推定)、覚知3時23分、西宮市西町の第二阪神国道でLPGローリー転覆(4トン)炎上火災〕
〔被害状況〕死者5人、負傷21人、建物全焼17棟、半焼・一部損壊16棟、タンクローリー1台、自動車焼損9台、損壊23台
〔発生の概要〕西宮市西町の第二阪神国道でLPGローリーが運転を誤り仰向けに転覆し、車輪を真上に向け、歩道橋に激突停止した。調べによるとタンクローリーは、転覆の直前60キロ以上のスピードで、ジグザグ運転していたと判断され、転覆の際、安全弁と液面計が破損し、安全弁は、ボンネット及びバルブスラムが破損、直径4センチ程度の穴があき、ガスは主としてここから噴出したものとみられる。
噴出したガスは、付近の道路側溝の集水ますより下水道を経て各家庭の台所、風呂場等に流れ込んだ。また、地上部分に流出したガスは、U字溝を伝わり、あるいは風に流され拡散した。国道南側は、国道より若干低かったので多量のガスが流れたと見られ、火災被害が大きく、北側は、国道より若干高かったため比較的被害が少なかったが、甚大な被害を出す惨事となった。
着火源としては、家庭用冷蔵庫の火花、付近でのアスファルト熔解の種火、自動車エンジンのスパーク、ガス器具の種火、その他の火気かと考えられている。
液化石油ガス等の貯蔵、取扱に関する届け出を義務化させた消防法の改正が行われた。
10月11日【安部整形外科医院火災】
〔平成25年10月11日、福岡市の「安部整形外科」診療所火災〕
〔被害状況〕死者10人、負傷5人、焼損床面積282平方メートル(耐火構造4階、地下1階、建築面積219.3平方メートル、延床面積681.7平方メートル)
〔発生の概要〕自動火災報知設備のベルの鳴動を受け、地下1階にいた当直の看護師が1階処置室北東附近から火が上がっているのを確認。その後1階玄関ドアの鍵を地下1階の休憩室に取りに行き解除した後、火災が拡大したため、通りがかったタクシーの運転手に依頼、運転者が110番通報し、警察から消防に通報された。
火災発生当時、院内には17人(入院患者12名、当直看護師1名、4階看護師寮に2名、3階自宅に居住していた前院長夫妻)がいた、入院患者8人と前院長夫妻2人が死亡した。
なお、遺体の状況などから、死因は火災の煙による一酸化炭素中毒とみられ2階の入院患者の多くが病室のベッド上で発見されている。
問題点・教訓は、階段部分の防火区画(竪穴区画)を形成する防火戸が閉鎖せず、階段室等を経由して早期に煙が上階へ伝播し、病室等に流入したこと。入院患者には、高齢、介護認定を受けた人が多く、有効な避難誘導が行われていないなど、夜間における防火管理体制が不十分であったことなどがあげられる。
この火災を受けて、平成26年に消防法施行令の改正が行われ、スプリンクラー設備の設置義務付け、及び令別表第1の(6)項の細分化等の強化が図られた。
10月3日【三宅島噴火】
〔昭和58年10月3日15:23頃、雄山南西山腹に生じた割れ目から噴火、降下火砕物、溶岩流、火砕サージが発生〕
〔被害状況〕住宅の埋没・焼失棟数約400、人的被害はなかった。
〔発生の状況〕雄山南西山腹に生じた割れ目から噴火。溶岩噴泉。溶岩流は主に3方向に流れ、南南西に流れたものは粟辺を通り海中に達した。西方に流れたものは阿古地区の住家を埋没し、海岸近くで止まった。また島の南部新澪池付近とその南の新鼻の海岸付近で、マグマ水蒸気爆発が発生し、多量の岩塊が周辺に落下し、多量の火山灰が東方の坪田周辺に積もった。溶岩の流出は翌日早朝にはほぼ止まった。
同島では、度々噴火を繰り返していて平成12年6月末から始まった噴火では、有毒な二酸化硫黄を主成分とする火山ガスが1日に数万トンも放出する活動が続いたため、9月2日から全島民の島外避難となった。その後も火山ガスの放出が続き、平成17(2005)年2月1日、ようやく避難指示が解除された。
9月26日【伊勢湾台風】
〔伊勢湾台風(台風第15号)は、昭和34年9月26日午後6時18分頃和歌山県潮岬北西に上陸、紀伊半島を縦断し、中部山岳地帯を経て、新潟県直江津市(現上越市から海上に抜け、ふたたび秋田県能代市付近に上陸、青森県東部に抜けるコースをたどった)〕
〔被害概要〕被害は九州を除く全国におよび、死者4,700人、行方不明401人、負傷者38,917人、全壊棟数40,838戸、半壊棟数113,052戸、また船舶の被害も大きく沈没、流失、破損7,576隻に上った。
〔発生の状況〕超大型の台風で上陸時の最低気圧は929.2ヘクトパスカルで「第2室戸台風」に次ぐ気圧の低い台風であった。
名古屋市内を通過した午後9時30分頃は、平均風速33メートル、最大瞬間風速47.8メートル、被害の大部分は高潮によるもので、伊勢湾での最高潮位は平均潮位上3.89メートルとなり、海抜0メートル地帯で甚大な被害をだした。愛知県のみで3,168人の死者を出し、長期の湛水による都市機能の麻痺、農地の被害など総被害額3,224億円と巨額となった。
この台風の後、各省庁の行政もとにおかれ、相互に関連のなかった防災行政を一本化し総合的な防災行政が求められ、昭和36年11月に「災害対策基本法」が公布され、災害緊急事態に対処しうる体制が整えられることになった。
9月15日【第2室戸台風】
〔昭和36年(1961)9月15日~17日、台風第18号による暴風被害〕
〔被害状況〕死者194名、行方不明8名、負傷4,972名、全壊棟数15,238、半壊棟数46,663、大阪湾で高潮被害、農作物被害は伊勢湾台風を上回る。
〔発生の概要等〕9月8日に発生した台風第18号は、中心気圧が900hPa未満の猛烈な強さの台風となった。進路を次第に北寄りに変え、15日朝奄美大島を通過。その後北東に進み、16日09時すぎ室戸岬の西方に上陸した。13時過ぎには兵庫県尼崎市と西宮市の間に再上陸、18時に能登半島東部に達し日本海に出た。日本海沿岸を北北東に進み、北海道西岸をかすめてオホーツク海に進んだ。
室戸岬(高知県室戸市)では最大風速66.7メートル/秒(最大瞬間風速84.5メートル/秒以上)、大阪で33.3メートル/秒(同50.6メートル/秒)、新潟で30.7メートル/秒(同44.5メートル/秒)など、各地で暴風となった。
この暴風や高潮による被害が大きく、雨による被害は比較的小さかった。大阪市では高潮により市の西部から中心部にかけて31平方キロメートルが浸水したが、過去の同様な規模・進路であった室戸台風、ジェーン台風に比べると浸水面積は小さく、人的被害も小さかった。 また、兵庫県、和歌山県、四国東部でも高潮による浸水被害があった。台風の通過した近畿地方と吹き返しの強い風の吹いた北陸地方で暴風による家屋の倒壊等の被害が特に大きかった。
また、「第2室戸台風」は、室戸岬の西に上陸で925hPaと台風上陸時の中心気圧が最も低い台風で、第2位は「伊勢湾台風」で和歌山県潮岬の西に上陸時929hPaとなっている。
9月1日【新宿区歌舞伎町・明星56ビル火災】
〔平成13年(2001)9月1日、調査中、東京都新宿区歌舞伎町の小規模雑居ビル「明星56ビル」火災〕
〔被害状況〕死者44名、負傷3名、焼損面積160平方メートル半焼(耐火構造一部その他構造、地下2階地上5階、建築面積83平方メートル、延べ床面積 516平方メートル)
〔発生の概要〕発見=「店のドアを開けたら黒い煙が勢いよく室内に入ってきた。」と、3階の遊技場従業員は、供述している。店内の客や従業員には知らせたが、消防への通報は行われていない。また、ビルに設置されていた自動火災報知設備は作動した形跡はなく、初期消火も行われていない。
通報=00時59分「明星56ビル3階から人が地上に落ちました。」と救急要請が第一報で、その2分後に外部者から火災通報され火災と判明。
当ビルは、5階建ての小規模雑居ビルで階段は室内に1か所で、3階のエレベータホール付近から出火、この階段室にロッカーやビールケースなどの可燃物が大量に置かれており着火炎上。また、これにより店舗の入口に設けられていた防火戸が閉鎖されなかったため、3階、4階の店舗に濃煙、熱気が一気に充満多くの犠牲者を出した。
この火災を教訓に、消防機関による立入検査制限等の見直し、消防機関・消防吏員による措置命令、防火対象物の定期点検報告制度、特定一階段防火対象物部への消防用設備等の設置強化など消防法等の改正が行われた。
・消防活動の概要は「事例で学ぶ特異火災の対応と教訓」竹内吉平著 を参照ください。
8月24日【超高層マンション・スカイシティ南砂火災】
〔平成元年8月24日、午後3時0分頃、東京都江東区南砂の28階建ての超高層マンション「スカイシティ南砂」24階から出火〕
〔被害状況〕耐火造28階、地下1階、建築面積2,067平方メートル、延べ面積3万3,209平方メートル、焼損24階159平方メートル、共用部分51平方メートル、バルコニー天井25平方メートル、エレベーター1基、負傷6人
〔発生の概要〕スカイシティ南砂火災は、日本最初の超高層マンションの延焼火災となった。出火建物の管理会社社員が自動火災報知設備により火災を覚知して24階に至りベランダでうずくまっていた女性を発見し、背負って特別避難階段から階下に救助した。
また、清掃していた不動産従業員が廊下に出たところきな臭いにおいがしていたので、特別避難階段で24階へ行くとエレベータホールが煙で充満していた。ベランダに出ると、女性がうずくまっていたので声をかけたが返事がなかった。抱き上げてこの女性を背負い西側の特別避難階段から2階まで搬送した。
出火点の24階は約63メートル高さにあり、先着隊は、連結送水管にダブル送水し、第1線は避難階段から24階廊下に進入したが、濃煙熱気の噴出が激しく内部に進入できる状態ではなく、玄関から内部に注水した。
◆本火災の消防活動の詳細は、「事例で学ぶ 特異火災の対応と教訓」(竹内 吉平著)をご覧下さい。
http://www.ff-inc.co.jp/syuppan/keibou.html
8月16日【静岡駅前ゴールデン街ガス爆発事故】
〔昭和55年(1980)8月16日、午前9時30分頃、静岡市の静岡駅前(紺屋町)ゴールデン街にある地上6階地下1階建ての第一中央ビル爆発炎上〕
〔被害状況〕死者15名(消防職団員5名)、負傷222名(消防職団員30名)、火元第1ビルは全焼、全半壊53戸(店舗・住宅)<一部損壊131戸、消防車両の大破炎上2両、小破1両、被害額5億5,400万円
〔発生の概要〕午前9時30分頃、第一中央ビル地下の飲食店「菊正」で、従業員が湯沸器に点火しようとしたところ、爆発が起き、同店との隣の「ちゃっきりずし」、奥の機械室などを大破。地上では直上に相当する1階「ダイアナ靴店」の閉鎖してあったシャッターが吹き飛んでしまった。菊正の従業員は隣のレストラン「桃山」に駆け込んで119番の連絡を依頼している。
通報を受けた静岡市消防本部の先着隊は33分に現場に到着、火災は発生していなかったが、人命検索、放水準備及びガス検知調査に入った。35分には警戒区域設定、45分には地下への出入口閉鎖を完了、48分には地下で相当量のガスを検知、爆発限界を超えて危険だった。しかし、野次馬は制止を聞かず、現場へ近づき現場をのぞき込むその野次馬を押し返し、50メートル離れたところに非常線を張る。それとともに連絡階段に送風機を据え付けガスの希釈、拡散を図ろうとした。
9時56分に大爆発が発生、第一中央ビルは火焔に包まれた。同ビル前に部署した消防車も爆風により変形、破損し、焼けただれ、この第2回目の大爆発で消防隊員を含む多数の死傷者が発生する大惨事となった。
第1回目の爆発は、菊正の従業員2名が無事であった、ということから小規模のものでてあったということができる。もちろん直上階のダイアナのシャッターが吹っ飛ぶほどはではあった。第2回目の爆発は、コンクリートの床、壁も大きく湾曲するなど凄まじい爆発で死者15人、負傷者222人大惨事となった。
この火災がキッカケで、防火対象物の項区分として「準地下街」が追加され、ガス漏れ火災警報設備の設置が地下街、準地下街及び特定防火対象物の地階に義務付けられた。
8月7日【有珠山噴火(北海道)】
〔昭和52年(1977)8月6日、03:30から有感地震多発。7日、09:12山頂火口原(小有珠南東麓)から軽石噴火(プリニー式噴火)を開始、噴煙は1時間後に高さ12000mに達したが、噴火は2時間半足らずで一旦休止。その後もマグマ水蒸気噴火も多発し、10月27日まで噴火活動を繰り返した。〕
〔被害状況〕10月16日と24日には降雨により有珠山全域で二次泥流が発生し、死者2人、行方不明者1人、軽傷者2人、住家被害196棟、農林業・土木・水道施設等に被害を生じた。
有珠山は、長期にわたる活動休止期を経て、噴火を開始したのは、1663年(寛文3年)で、歴史時代最大規模のものでそれから今日まで江戸時代に5回、明治以降4回噴火している。
1943年(昭和18年)から北麓で有感地震が頻発しはじめた。地震の頻発とともに地盤の隆起がはじまり、隆起していた麦畑の中から突然に噴火がはじまり、粘性の高いマグマが屋根山の上に盛り上がって、溶岩ドームを形成しはじめ1945年(昭和20年)9月に活動を停止した時には海抜406.9メートルに達した。この溶岩ドームは、「昭和新山」と名づけられた。
その後、2000年(平成12年)3月31日、山腹からマグマ水蒸気爆発を発生させたが、この噴火は的確に予知され、危険地区の住民は、噴火前に避難を完了していたため、人的被害は全くなかった。
7月31日【陽気寮火災(神戸市)】
『陽気寮火災』(神戸市)
〔昭和61年(1986)7月31日、午後11時40分頃、神戸市 知的障害者授産者施設・陽気寮の火災〕
〔被害状況〕死者8人、「陽気寮」鉄骨2階建延べ面積1,027平方メートル全焼、「よろこび荘」829平方メートル半焼
〔発生の概要〕出火とともに自動火災報知設備が鳴動し、当直の職員がそれに気づき「どうした」と問うが、入所者は「誰もベルを押していない」との返事だった。もう一人の当直員は廊下から煙を発見し、一旦消火器で7号室の火を消そうとしたが消火できず、直ちに避難誘導に切り替えた。屋内消火栓で消そうとしてホースを伸ばした職員もいたが、慌てて起動ボタンを押さなかったため、放水できなかった。
近くの宿舎から駆けつけた理事長はじめ職員の誘導によって多くの入所者を介護しつつ、避難させたが、火に興奮して、再び室内に逃げ込むものも出て混乱、消防機関が覚知するまで23分かかったことが被害を拡大した。
この火災で男性の入所者8名が死亡した。いずれも自力で避難することが不能又は困難な者であった。しかし、職員及び駆けつけた者の努力で96名を避難させている。
7月23日 【昭和57年7月豪雨(長崎豪雨)】
〔昭和57年(1982)7月23日~25日にかけて低気圧が相次いで通過し、梅雨前線が活発となり、長崎では3時間に313.0ミリの豪雨となりなり、長崎市を中心に大きな被害が発生〕
〔被害状況〕死者427人、行方不明12人、負傷1,175人、住家全壊1,120棟、半壊1,919棟、床上浸水45,367棟、床下浸水166,473棟
〔発生の概要〕7月10日から20日にかけて、ほぼ毎日西日本の所々で日降水量が100ミリを超える大雨となり、600~800ミリに達していた。
23日から25日にかけては低気圧が相次いで西日本を通過し、梅雨前線の活動が活発となった。特に長崎県では23日の20時頃から1時間100ミリを超える猛烈な雨が続いた。長崎市では3時間余りで313ミリの短時間豪雨となり、市内各河川の氾濫、鉄砲水、山津波、土石流などにより、死者・行方不明299名と、数多くの家屋の倒壊、浸水など甚大な被害を引き起こした。
また、帰宅時のラッシュと重なったため、多くの車が濁流に次々と流され、土石と一緒に転落埋没した。長崎市内における放置された自動車は、路上で1,204台、河川、空地、駐車場等で364台であった。
7月11日 【東名高速道路・日本坂トンネル火災】
〔昭和54年(1979)7月11日、午後6時38分頃、静岡県焼津市と静岡市の堺の東名高速道路日本坂トンネル内の下り線での車両火災〕
〔被害状況〕死者7人、負傷2人、車両186台焼失、損害額8億4,100万円
〔発生の概要〕日本坂トンネル内下り線で、大型トラックと乗用車5台が玉突き衝突を起こし、燃料のガソリンが火花により引火爆発、さらにトラックの積荷の合成樹脂、揮発性油等が炎上し、トンネル内で数珠つなぎになって停止した車両に次々と延焼し、車両189台を焼損する道路トンネル内の最大規模の惨事となった。追突によって車内に取り残された7人が死亡、2人が負傷し、トンネル内での消火作業は想像を絶する高温下で困難を極め、覚知から約160時間後の18日午前10時ようやく鎮火した。大動脈の東名高速道路が寸断され物流に大きな支障をきたすとともに周辺道路は大渋滞を起こした。
その後、道路トンネル内における非常用施設の設置について、トンネル等級ごとに通報、警報設備、消火設備、避難誘導説火等の設置基準が定め、これらの施設の運用基準も具体的に定められた。
6月19日 【温泉施設爆発火災】
〔平成19年6月19日、午後2時すぎ、東京都渋谷区の女性専用温泉施設シェスパの別棟〕
〔被害状況〕死者3人、負傷8人
〔発生の概要〕渋谷区の繁華街で発生した温泉採取施設の爆発火災により施設従業員、通行人まで巻き込み惨事となった。この施設は、地下1,500mから温泉を汲み上げるもので、地下1階に設けられた汲み上げポンプにより、地下から温泉を汲み上げていたが、それに伴い発生する可燃性ガス(メタンガス)の外部への排出処理が適切に行われていなかったため、充満した可燃性ガスが何らかの理由により引火・爆発したものとされている。この施設は、爆発火災により地階はもちろん、1階の従業員控室を含め、鉄骨造りの屋根まで爆破され、それにより周辺の数多くの建築物に被害を与えた。
本事故を教訓に、この種の温泉の採取のための設備が設置されている施設にもガス漏れ火災警報設備の設置対象として強化された。
6月12日(木) 【1978年宮城県沖地震】
〔昭和53年6月12日、午後5時14分頃、宮城県沖100キロメートルを震源とするM7.4の地震が発生〕
〔被害状況〕死者28人、負傷1万1,028人、火災12件、全壊1,368戸、半壊6,067戸、
〔発生の概要〕地震による被害区域は東北から関東に及ぶ大規模な災害になった。特に宮城県、岩手県、福島県の太平洋に面した地域の被害が大きかったが、津波による被害はなく、幸に地域住民の火の始末が的確だったため火災による二次被害はほとんどなかった。しかし、死者28名のうち17名がブロック塀、石塀の倒壊による下敷きで死亡したこと、電気、水道、ガス等のライフラインの被害による都市機能のマヒなどが問題になった。
建設省(現国土交通省)は、昭和43年の十勝沖地震の建物は概に対する反省から総合技術開発プロジェクト「新耐震設計法の開発」行われていたが、宮城県沖地震の地震被害で妥当性が実証され昭和55年に建築基準法施行令の改正が行われた。主な改正点は、
・大地震に対する安全性を確認するための構造計算として「二次設計」を新設。構造形式等に応じ、3つの計算ルートのいずれかを適用
・地震力の計算方法の見直し(水平震度時代の終わり)
・木造、鉄筋コンクリート造、補強コンクリートブロック塀等の仕 様規定も強化 など
6月6日(水) 【特別養護老人ホーム・松寿園火災】
〔昭和62年6月6日、午後11時20分頃、東京都東村山市 特別養護老人ホーム松寿園〕
〔被害状況〕死者17人、負傷25人、焼損面積 耐火造3階建延べ面積2,01平方メートルのうち2階部分450平方メートル
〔発生の概要〕松寿園は、高齢者収容施設で在園者の平均年齢は82.3歳であった。同園は消防設備、防火管理者の選任、消防計画の作成・届出、避難訓練の実施など関係法令に適合しており、また厚生省令に基づく特別避難階段も2か所備え、屋内消火栓設備、非常用放送設備を自主設置するなど、ハード、ソフト面の防災対策はかなりの水準を維持していた。
しかし、17人もの死者を出す原因となったのは、当日の当直が2名では在園者74人に対応しきれなかったこと、初期消火、通報に手間取ったことがあげられるが、なにより自力避難が困難な災害弱者を収容する施設であったことがあげられる。
前年の神戸市の知的障害者授産・収容施設「陽気寮」に続いた火災を受け、スプリンクラー設備の設置基準1,000平方メートル以上、火災通報装置及び一人で操作ができる屋内消火栓設備の基準の整備がはかられた。
5月24日(日)【チリ地震津波】
〔昭和35年5月23日、午前4時11分頃(日本時間)南米チリ南部沿岸M9.5、1900年以降一番の巨大地震〕
〔被害状況〕日本で、死者122人、行方不明17人、負傷872、全壊1,571棟、流失1,259棟、
〔発生の概要〕南米チリ南部沿岸で起きたM9.5の巨大地震は、チリ沿岸で10~20mの大津波を発生させ、これが環太平洋全域に波及し、なかでもハワイ諸島と日本に大きな被害をもたらした。
津波は一昼夜をかけて翌24日震源から約1万7,000km離れた日本に到達し、北海道から沖縄に至る太平洋沿岸で4m前後の波高になり、高いところでは6mに達した。
特に、岩手県大船渡市(死者50人)、宮城県志津川町(現南三陸町)(同37人)、北海道浜中村(現浜中町)(同11人)の被害が大きかった。
津波警報を出すのに十分な時間があったが、日本沿岸でこれほどの規模になるとは予想されず発令がなかった。この災害を機に、このような遠地津波に対する国際協力に基づく津波警報システムが確立されることとなった。
5月13日(水) 【千日デパートビル火災】
〔昭和47年5月13日、午後10時27分頃、大阪市南区(中央区)難波新地の複合用途の千日デパートビル〕
〔被害状況〕死者118人、負傷81人、焼損面積9,736平方メートル
〔発生の概要〕千日デパートビルの3階「スーパーニチイ千日前店」で電気配管の改装中、婦人服売り場付近から出火、鉄骨鉄筋コンクリート造一部鉄骨造、地上7階地下1階の同ビル2階から4階の9,768平方メートルを焼失する火災となった。
出火当時、7階のアルバイトサロン「プレイタウン」は営業中で、客、従業員、バンドマンなど179人が滞在していた。出火階には大量の衣料品あり、しかも化学繊維製品が多かったため猛煙が立ち上り、エレベータ、ダクト等を伝わって、7階のプレイタウン店内に充満した。滞在者のうち、22人が飛び降り死亡、96人が窒息死した。
保安員が7階関係者に火災が起きたのを通報しなかったこと、プレイタウン側の誘導避難が遅れたこと、避難者が救助袋の使い方を誤ったこと、衣料品や新建材が有毒ガスを出して燃えたことなど多くの要素が重なったための大惨事。この最大の死者118人というビル火災は、多くの教訓を残した。
防火管理、共同防火管理体制の強化、消防用設備等の基準の強化はじめ、既存建物への遡及適用についてもこの教訓をもとに強化された。
5月6日(木)【柿の木坂タンクローリー火災】
〔昭和60年5月6日、午前11時30頃、環状7号外回り目黒区柿の木坂付近〕
〔被害状況〕負傷1人、全焼1棟、ぼや5棟、セミトレーラー型タンクローリー1台焼失
〔発生の概要〕柿の木坂付近を走行中のセミトレーラー型タンクローリーが、急ブレーキをかけたところ、雨に濡れた路面でスリップし、並行中のの乗用車に衝突して横転。積載していたガソリン16,000リットル、軽油4,000リットルが漏洩し、引火して火災になった。
東京消防庁は消火・延焼防止活動に努めるとともに、火災警戒区域を設定、付近住民にガス、電気の使用を控えタバコも吸わないように広報活動と、避難誘導により比較的軽微にすんだ。
この事故を踏まえ、その管轄内にある移動タンク貯蔵所ついて、応急措置命令等ができるよう改正された。
4月27日(月) 【呉市山林火災】
〔昭和46年4月27日、午前11時10分頃、広島県呉市広町の山林〕
〔被害状況〕消防職員18名殉職、焼損面積340ヘクタール
〔発生の状況〕昭和46年4月27日、午前11時10分頃、呉市広町の民有林で、道路整備作業にあたっていた作業員の昼食用のお茶を沸かすためたき火をしたところ東南東の強い風にあおられて崖の枯草に燃え移り、異常乾燥注意報、火災警報発令中のという悪条件のもと、一挙に拡大林野火災となった。
小径を基礎としてして防ぎょ線を設定すれば有効な阻止線になると判断、作業を開始し、その目的の防ぎょ線の設定を完了し、引き続いて燃え下がり部分に対する鎮圧しようとしたところ。
突然、気象の変化により、東寄りの風が南寄りの猛烈な局地風となり南側火線より北側の山下草生地にに飛火と思われる火炎が上昇した。この状況を監視していた監視員より無線により避難を命じたが、飛火はさらに拡大、火勢は相乗するように稜線に向かって幅300メートル傾斜角度30度~50度の斜面を急上昇、隊員の退路を包むかのように上昇し、山頂まで約600メートルを上がり来た。
4月8日(水)【大阪地下鉄工事現場都市ガス爆発火災】
〔昭和45年4月8日、午後5時47分、大阪市大淀区(現北区)〕国分寺町の地下鉄堺筋線・天神橋筋六丁目(通称=天六)駅工事現場〕
〔被害状況〕死者78人、負傷411人、火災罹災31棟、焼損面積1,707平方メートル、爆風棟による一部損壊65棟、道路は、長さ150m、幅10m、深さ10mにわたって大きく陥没。
〔発生の概要〕地下鉄駅の工事現場で、埋設ガス管の継ぎ目部分がはずれによるガス守事故があり、調査中の大阪ガスの緊急事故処理車がエンジンを始動させたところ、車の下が燃え上がり、、しばらくして地下に充満した都市ガスが大爆発を起こした。工事現場をおおっていた重さ400kgの覆工板が広範囲に吹き飛んだほか、ガスの炎が噴出して火災となった。
ガス漏れ事故は、午後5時15分頃とみられるが、火災の発生と爆発は5時47頃に起き、この間、周辺住民や集まった野次馬に対する適切な避難措置が取られていなかったことが、人的被害を大きくしたと、大きな問題となった。
また、地下鉄工事に伴う埋設ガス管の取扱いやガス漏れ対策について、大きな教訓を残した。