第7回 デマに恐怖を覚えながら避難 向島消防婦人副部長 下野みよ子

大正大地震のあった日、私は東京・本所に住んでましたが、ちょぅど友達と2人で学校から帰ってきた途中でした。ガタガタと自分の足元がふらつき、それに隣のおばさんの持っていたバケツの水が動いているのでおかしいなと思いました。近所まできたら材木が30本位、ガラガラと倒れてきたんで急いで家へ飛び込みましたら、母に表へ出ちゃいけない、家へ入んなさいといわれたのを記憶しています。
隣や家のまわりのかわらがガラガヲ落ちてくるのがわかりました。それで私たちはどうしたらいいかわからないで便所へ入りました。便所へ入ったとたんに、父親が仕事でちょうど近くにいましたので飛んで帰ってきて地割れがして危ないから表へ出るなという声が聞こえました。何が何だかわからないで、便所へ父と母と妹といっしょ入ったんです。しばらくすると多分10分ぐらいたったらみんな逃げろ、逃げろの騒ぎでどこをどう通ったかわかりませんでしたけれども、永代橋のほうへ逃げました。柳の木が燃えていました。私たちはかやをかぶって大八車の上に乗せられたんですが、そのかやが燃えてきたもんですからみんな川へ飛び込みました。その後どこを逃げたかいまははっきりわかりませんけれども、父親に手を引かれて上野の山のほうへ逃げたんです。
途中の道路は大変な混乱状態で荷物で歩けなかったんです。子供や老人がリヤカーとか大八車に乗せられてガラガラ引っ張っていったのを覚えています。
近所の人が倒壊した家の下敷きになってしまい「助けてくれ、手を切ってくれ」という叫び声が聞こえました。私と父親はそれをどうすることもなく、ただ横で見ながら逃げたんです。それからしばらくたつとあっちからもこっちからも火が出てきました。道は地割れがひどく自然と落ちるようなとこはかりで、私は父親に、妹は母親におぶさって逃げたんです。その夜は兵隊さんに守られて一夜を明かしましたが、上野の山から下町のほうの火の燃え方がよく見えましたが、どこが燃えてるかはさっぱりわかりませんでした。とにかく火の海でした。
やがていろんなデマが出まして社会主義者がつかまったとそれだけ聞いたんです。それを口にしたら両親にそういうことはいっちゃいけないといわれまして黙っちゃいました。今でも強く印象に残っているのに、男の人が針金で縛られて連れられていくのを見ました。大人達にみんな家へ入れといわれましたが、自分も縛られるのではないかとただこわいという気持ちだけでした。
自治会が兵隊とともに町の警備にあたり、特に、女や子供は7時以後は全部家へ入ってろと。家といってもワラとかトタソ板を組んだ中ですけど、町中に恐怖心が広まり、お互に連絡をとるときは、「山」といったら「川」といえというスパイもどきの暗号をつかって連絡をとりあっていました。
今から考えても、地震そのもののこわさよりも、後で発生した火災が一番被害を大きくしているということを体験からも肝に銘じました。地震の直後に母が魚を焼いてた七輪に水をかけ、白い煙が広がったことは、今でも記憶に残ってます。また、便所にみんな避難したことは、地震国日本民族の生活の知恵というか、このとっさの行動に驚嘆しております。
今後の大震対策には、各家庭が自分の身の廻りのことに気を付けることが大切です。現在のように過密都市では抜本的に都市改造が必要ですが、今すぐにどうこうという案はなかなか出てこないでしょう。したがってもはや火災は消防署、治安維持は警察と行政機関に頼ってはかりいる時代ではない。自己防衛として自分のことは自分でやらなくちゃいけないということを痛切に感じてます。