大正十二年九月一日の大震災の私の体験談を書こう。私は明治三十一年四月十五日神田富山町十七番地に生れ、当時二十五才だった。
大正十二年九月一日この日は朝の内は雨が降っていたので仕事を休み自宅にいた。その内雨はやみ正午頃になったので昼食をしていたところ、突然家がゆれ動き横にゆれるのでなく上下に持上る様なかんじがした(時間は十一時五十八分だった)。とっさのことで瞬間的にはどうすることもできなかった。ゆれていた時分は約一分位と思われたが私の家は幸に木造の平家建て故つぶされなかった。
おさまるのを待って外へ出た。付近を見たがつぶれた家はあまりなかった。その内日本橋区本町方面から火の手があがった。
一 出動
風は南西故神田方面に煙がなびき始めている。これは大変だ大火になるのではないかと思った。すぐ刺子を着、火事場仕度を成し神田和泉橋の私たちの詰所である神田消防署第一分遣所にかけつけた(自家から第一分遣所まで約二、三分)。その内消防組員が十名位集まって釆た。
二 防ぎょ行動
消防組員十名で輅車、刺子、梯子、纏を持って日本橋の本町の火災現場へ急行した。
現場に到着してみると火元は日本橋区本町三丁目五番地「猫いらず」の製造販売薬品会社であった。火元建物から憐接建物に延焼拡大中であった。すぐま近の消火栓にホースを直結して五本延長し、盛んに延焼拡大の建物に対し必死の消火作業を行ない延焼阻止に全力をあげたにもかかわらず火勢は大きくなるはかり又火勢が大きくなるにつれて風を急上昇させまた飛火となって四方に拡大しいよいよ道路の反対側の建物にも延焼した。
手のつけようがなくなり、そのうち水圧がなくなり放水できなくなりた。火勢は南西へと急に拡大するので防ぎょを中止した。
三 避 難
到着時二十三棟延焼中だったが、火災現場を引きあげるときは火の海となってきた。神田区美倉町に引きかえしたが、私ら消防組員も自由解散のかたちを取るよりなくなった。火勢は自分の家の方向に延焼を始め道路と云う道路は避難する人と荷車でほとんど通行不能の状態である。どこかに空地がないかと思ったとき当時神田駅と秋葉原駅の間が東北線国電の敷地故空地になっていた。
その空地にみんなが避難したのである。たちまち荷物と人の山となり、そこも危険になったので万世橋付近に避難しょうとしたが万世橋方面は火の海ゆえ、和泉橋に避難した。其時は夕方頃だった。
当時柳原河岸通りは煉瓦の建物故おそくなった。しかしここも危険になってきたので秋葉原構内を通り御成街道(現在中央通り)から上野の山へ避難した。しかしここも人と荷物の山で危険なので人におされ、おされ根津から本郷に出て神田神社に避難し、ここで一夜を明した。明けて神田方面を見ると焼野原となっていた。どこへ避難しても火におわれると思い焼あとへ帰った。体験上からつぎのことを考えた。
(1) 水道はすぐ水圧がなくなるので水利として使用はできない。
(2) ポソプ車は自然水利又は貯水槽を利用すること。
(3) 火の流れを早くつかむこと。
(4) 破壊消防が必要と思われた。
(5) 風下になる地域には荷物を持たずに早く避難すること。
(6) 結局大切に運んだ荷物に火がつき避難者のうちから相当の焼死者を出している。第三、第五の避難場所を考えておくこと。
(7) まず第一に火の始末をする事。ガス元栓、石油こんろ、など電気器具類のスイッチ。
(8) 火事場はかならず旋風がおこるので諸品物がまき上る。又火粉塵等か吹上るので頭巾又は手袋等の支度をわすれずに常に用意して置く事。