第5回 4日目に家族と再会するまで 元東京消防庁豊島消防署長 須賀景樹

大音響とともに上下左右の激震
大正十二年九月一日午前十一時五十八分突如大地震が起る。私は深川消防署の次席で当日は非番日に相当しこれから昼食でもしようかと思った時である。杉浦泰署長は、消防本部に打合せのため不在で、機関士がその日の責任者であった。何しろ大音響と共に上下左右に揺れる激震であるから消防署の前の家は倒潰した。幸い消防署は丈夫であるため倒潰はしなかったが、壁は落ち高い所にあるあらゆるものは皆落ちて机は左右に動き到低立っては居られない。曹長は机の下にもぐり込み、私は書棚を押えながらやっと立っている始末で、何事もなす術もなく、傍観して地震の止むのを待つ外はなかった。数分後に揺れが止ったので、始めて我に返り二階の窓より外部を見ると、家は曲り瓦は落ちそのほこりで、全然見透しはつかない。一面煙で一ぱいのような状況である。
私は非番であるが次席としての責任上先ず消防本部に報告しょうと思っていたが電話は勿論不通であったのでこれは大きな火災が起ると直感した。直ぐ望楼に電話をして見ると不通のため裏庭に出て望楼勤務者に向い、大声で何処かに火事があるかと問うたが勤務者は恐怖の余り声も出ない有様で、角の鉄柱につかまっていたが漸く全部火事ですと答えた。私は全部では解らない一番近い所は何町何番地か、火の見える所は何処か、と問い返したがあまり要領を得ない。これは一大事である。必ず大災害が起ると思った。私は任官して来て未だ六ケ月しかたたない。夏服を着るのも始めてで丁度新調したばかりの自の麻服であるから汚してしまうのは勿体ないと思って、服は椅子にかけ金側時計を取外して机の上に置き靴だけは大火を予想しまた長時間活動することになることと思ったので靴は、新しい靴長靴をはき防火被服を着て出場準備を整えたがこの時電話は全部断線していても水道が断水しているとは、考えてはいなかった。

全くつかめなかった出場車両の動き
そこで一番近い火災現場にポンプ車に乗って出場したが当時は本署だけにポソプ自動車と水管自動車(ホースだけを積んでいる自動車)が配置されていたのである。現場に到着して消火栓により防御に当たろうと思ったが水道は減水し水圧がないので一先ずポソプ車で水を吸いながら放水したが暫くたつと水がなくなってしまった。幸いに本所深川方面には大小の河川等が多かったので河川の水で延焼防止ができる場所に移動した。当時第六消防署には本所に松倉派出所、深川に黒江派出所のニケ所に大型ポンプ(七十五馬力)各一台があり松倉派出所には外に区民の寄贈による「オートバイ」の小型ポソプ車があった。平常時は電話で指令も出来たのであるが、連絡不能であり何処に火災があるのか、何処に出場しているのか皆目解らない。私は本署のポソブ車の位置を指示し水管車で派出所隊の行動等を確認しようと、市街の倒潰家屋と街路に出した荷物をさけ乍ら先ず本所方面に向ったが、西を向いても東を向いてもー面の煙で一向に見当がつかないので家屋の屋根に登っても見たが全く四方八方皆煙で延焼の状況さえ判断できない状態であるので、巳むを得ず松倉派出所に向って行くことにした。途中空を見ると、本所方面は一面に煙が拡がり、これでは前進も不可能と考えたので他の道路のことも考えて見たがほとんどが通行不能であるし此の他に居ても遂には火に囲まれる。運転手諸共焼死するのかとも思い心細くなって来た。最後には此の通りを直進する以外にはないと思ったので濃煙の中を出来る限りの速力を出して息もつかザに約二〇〇メートルを突進した処、幸い大通りの十字路に出た。其の処は幸いに風の方向も変り延焼して来る心配も少なかった。そこで避難する多数の市民に対し消防のポソプ車を何処かで見なかったかと尋ねて見たが、誰一人返答する者もない。或る商店の主人が店の品物は全部焼けてしまうのであるから誰でも好きな品物を上げますよ、持って行きなさい、とすすめていたが誰一人として貰って行く者はなく逃げるのが精一杯であった。やっとのことで竪川に消防ポソプ車を見つけこれが松倉派出所隊と解った。延焼防止に苦闘していたが、広い火面に対して延焼阻止等は当低望めないので一時的の局部阻止に止るが最後まで此処で防御に当ることを命じた。
次で永代派出所のポソプ車は何処にいるかを確認したいと思ったので、またも水管車に乗り東の方面にまだ延焼していない区域があるのでその方両を迂廻し深川の木場に出てようやく永代橋通りに出たとき黒江町派出所隊が木場の堀の水を利用して延焼防止に努めていたので本当に胸を撫でおろした。その時は震災が発生してから既に四時間も経っているがどの方面も鎮火する様子はなく益々拡大の様相を呈している。機関勤務員が私にガソリソがもう少ししかないがどうしましょうというので、どこかの油屋でガソリンを貰ってこいと消防手を取りにやったがいくらたっても戻って来ないので、心配であった。此の消防士は遂に帰って来なかったことが後日になって解ったが返す返すも気の毒なことであった。私はそのポソプ車隊に已むを得ないから延焼しない所の油屋に行って給油してから防御に従事するよう指示した。

ガソリン切れてポンプ車動けず
避難者は午後になって益々増加し市中は大八車に荷物を一ぱい積んで、まだ燃えていない東方の砂町方面、錦糸町方面、亀戸方面、と思い思いの方面に向って避難するので町中は何処も人と車で混雑を極めた。私の指揮する永代橋隊も遂に錦糸町駅構内に移動した。此処は空地も広く貯水池もあるので最も適当な場所であると思ったがこれを見た避難民は此処は消防ポソプが居て空地も広く安心であるとのことから次々とその数を増し且荷物を満載しているので、若し此処まで延焼して来た場合は、ポソプ車も焼けると思った。故に集まった群衆に対し此処も安全ではないから早く亀戸から千葉方面に逃げるよう注意したが、一且止ると各方面から次々と後続者が押しよせて来るのでどうするとともできない状況であった。午後六時頃には遂に駅構内近く迄延焼して来てポソプ車も危くなって来た。巳むなくポソプで荷物に水をかけると共にポンプ車自体にも水をかけながら漸く焼失だけは免れたが、此のままでは人命も危くなるので私は此の大群衆を避難誘導することが先決問題であると考え鉄道線路上より亀戸方面に駈けて行けと大声で指示誘導した。最後には消防車はどうすることも出来ず「ガソリン」もなくなり已むを得ずそのまま置いて隊員をつれて線路上を東に向って逃れたが幸い空地に本署のポソプ車隊を発見したので同隊より今迄の経過等を聴取した。夜になると風も南風に変り酉の方は炎で真赤であり時々爆音と共に花火のように飛散り大噴火山の爆発のようでもある。私はこれを見て妻や子供達は全部死んだものと思ったし、これから先はどうしようかと思ったりもした。此処に集合した消防手は機関勤務員の外四、五名である。その夜はポンプ自動車の処に徹夜で警戒しながら夜を明かしたが朝になって火災は幾分下火になったような気はするがさかんに延焼している。避難民の話によると洲崎遊廓方面は大丈夫であるとのことで私はポソプ車に全員を乗せ安全な場所を通って正午頃洲崎に着いた。幸い洲崎派出所は不燃建物であったから焼け残ったので一先ず此処に落付くことにした。
九月二日の午後消防本部に報告のため永代橋を渡って日比谷に向ったが途中永代橋は焼け落ち水道鉄管と瓦斯管の太い管が橋の下側にあった。両手をつき、はうようにしてこれを渡っている人もあるが女や子供には到底渡れない。避難民の話では両国橋も吾妻摘も皆焼け落ちて通れないとのことである。深川方面より山の手方面に行く者はあるが隅田川を渡って東の方に来る者は少い。洲崎派出所より消防本部に行くまで約三時間もかかった。警視庁は焼け、消防本部は半蔵門の消防練習所に移転したことを知り消防本部に行って緒方本部長に会い昨日大震災が発生して以来の状況を詳細に報告した。特に杉浦署長は行方不明本所深川方面は殆ど全滅の状態であること消防車は全部無事であること等を報告した処部長は君の家族ほどうか署員はどうかと聞かれたときは私は感きわまって涙が止らず声もつまってしまった。私の妻子は死んだと思います。全然行方が解りません。黒江派出所も全焼し付近一席は皆焼けて一軒もなく署員も今朝まで行動を共にしていた者は五名ですと報告すると食物はどうしたかと聞かれたが私は昨日よりほとんど絶食しているので声も出ない程の状態であったので、その旨を述べると、部長は早速軍用乾パンと軍用牛鑵をくれた。その時は何とも形容し難い、うれしさで只々涙が出るはかりであった。
緒方部長への報告に約一時間位かかったので終了後直ちに洲崎に帰る旨報告すると部長は今から帰るのは大変だから今夜は此処に泊って行けと言われた。私は消防士のことも心配であるし妻子のことも気になるので本日は帰って明日更めて報告に参りますと申上げると部長は私に握り飯と牛鑵をくれた。九月二日であるから日も長く洲崎に帰ってもまだ少し明るい位であった。夜になると電灯もローソクもなく真暗闇である。家もなく人も居ないのでねるより外ほない。
九月三日明るくなると直ぐ起きた。時計もなく時刻もよく解らない。妻子の安否も解らないまま署員に命じ黒江松倉両派出所のポンプ車ならびに署員の状況を調査させると共に、食糧を何とかして調達することを指示した。私は何しろ防火被服を着たままで何一つもたない。先ず食べることにも困るので本所の姉の処に行き姉も余裕はないらしかったがやっと金二円を借りて来た。

震災後4日目に家族と再会
九月四日佐藤消防手が奥さんとお子さんが生きて居り私の家に居りますよと話してくれたが私は一時の気慰めの言葉であると思って信じられなかった。これは死んでしまったのを悪いから逆なことを云って慰めようとしているのだと思って真実であるとは思われなかったのであるが午後になって佐藤消防手が私の妻子をつれて来たので何とも表現が出来ない。まるで夢のようで止めなく涙が出て来た。
私は此のままで東京に居ては皆死んでしまうと思ったので本郷千駄木町の親せきに一先ず避難し翌日家族は安中に帰らせる事に決めた。私は子供を背負い少しばかりの食糧を持って洲崎より亀戸を廻り白鬚橋を渡り谷中から千駄木へ、漸く午後四時頃に目的の家に着き、よく依頼した後、消防本部に到り私の家族のこと、署長が行方不明であるが奥さんは清澄公園に避して助かったこと等を部長に報告した。
此の頃から人心が動播している時でもあったし総ての通信連絡も杜絶しているため流言飛語が盛んに飛び朝鮮人が物を強奪するとか子供に毒菓子を与える。井戸に毒を入れる。とかまたは大勢の者が品川方面から芝方面に押寄せてくるとかと如何にも真実らしいように次から次へと伝わり、特に夜間は危険な状態であったため消防署も警戒を始めることとし消防手二名を一組として付近を巡回させることになった。此の様な状態であったため本部長は、須加消防士ば今晩此処に泊って行けと言われた。故にその夜は本部に泊ったが殆ど眠れないで徹夜勤のようであった。

井戸に毒薬の流嘗飛語手斧をさげ警戒に当る
九月五日早朝に本部を出て洲崎に帰ると此処もまた朝鮮人関係の流言で一はいである。隣りの警察には四、五人の朝鮮人が綱で縛られている。ガマグチを三、四個持っている者を見たなどと真実らしいうわさが流布され市民もいきりたって極めて物騒な状態であったので夜間は消防士が二人一組となって手斧を提げ付近の井戸等を警戒していた。流言によって迫害を受けた朝鮮人は極めて多かったがこれに間違えられた受難者も相当あった。当署に勤務する消防手の父親がはるばる岩手県から訪ねて来たとき服装は粗末であり言葉もよく解らないためたちまち朝鮮人と間違えられ自警団に縛られ警察につれて行かれそうになった処へ消防手が通りかかってよく聞いて見ると同僚の父親であることが解り受難を免れたこともある。電気もなくローソクもないので暗くなったらねて明るくなったら起きるという状態が幾日も続いた。この日に初めて玄米、ローソク、紙等が少しずつ配給されるようになり署員もぽつぽつ帰って来る者も出来て十五、六名位になった。九月七日初めて書類を以って消防本部に報告をしたがその時には未だ行方不明の者が三十名程いた。