風化させてはならない過去の大規模災害

2月16日
大協石油㈱四日市製油所灯油タンク火災

〔四日市市・大協石油(株)四日市製油所灯油タンク火災〕
〔被害状況〕昭和50年2月16日午後3時5分頃、コンルーフ灯油タンク(2万2千キロリットル、直径50メートル、高さ12.228メートル、油量1万1千773キロリットル)から出火。鎮火まで約4時間半を要しました。
〔発生状況〕出火したタンクは、常圧蒸留装置で製造された灯油分を貯蔵し、水添脱硫装置に送るためのタンクで、出火原因は、収納されていた灯油は、精製工程に発生した硫黄分の多い気体を含んでいたため、タンクが腐食し、さびに吸着していた油に衝撃等による何らかの火源から着火し、火災に進展したものと推定されました。
 四日市消防本部は、火災タンク側板への冷却注水を行うとともに防油堤内に泡放射を行い、コンビナート内の自衛消防隊に応援要請をしました。また、桑名市を始め近隣の消防機関も自主的に応援出動し、火災タンクに隣接しているタンクに固定消火設備で泡消火薬剤を送入し油面の表面を泡で覆うとともに、油の抜き取り及び近隣タンクへ冷却注水を行いました。
 製油所内にある他のタンクに拡大すれば、近隣住民に被害が出る恐れがある火災でした。

2月6日【札幌市・白石中央病院火災】

〔被害状況〕昭和52年2月6日午前7時40分頃、札幌市にある白石中央病院第1診療室から出火、木造2階建の旧館648平方メートル焼失、新生児3名を含む4名焼死。
〔発生状況〕出火原因は、同病院のボイラーマンが当日の朝、第1診療室の暖房用蒸気パイプドレインの凍結を溶解するため、室内から身を乗り出して、トーチランプでパイプを暖めようとして、その炎によって、モルタル壁の下地に着火したことに気づかず、作業を続けたため燻燃状態を経て、出火延焼したもの。
 自動火災報知器の警報ベルで、1階事務室にいた夜間警備員と患者付添人は、第1診療室に駆けつけ、付添人は付近にあった消火器を使用し初期消火に当たりましたが、効果がなく、消火をあきらめ、患者である自分の妻を避難させるため、2階へ向かいました。
 夜間警備員は火災の状況を見て狼狽し、居合わせた給食係職員に通報するよう依頼してそのまま退避しました。
 2階には、見習い看護師と助産師が当直していましたが、誤報と思い込み、避難誘導などの行動が図られませんでした。その後、急激な煙の上昇に気づいた2人は避難を呼びかけ、新生児室の6人の新生児のうち3人の避難を図りましたが、2階非常口は施錠されており、非常口横の窓から屋外非常階段に出て、窓越しに新生児を受け渡して避難させ、残してきた新生児を避難させるため戻りましたが、すでに2階部分にも延焼し、煙に阻まれ救出できませんでした。
 死者を出す火災となった原因としては、夜間警備員、当直看護師が、パニックに陥り、有効な避難行動がとれず、初期消火に失敗したことが挙げられます。

1月26日【法隆寺金堂火災】

〔昭和24年1月26日午前7時頃、奈良県斑鳩町の法隆寺の国宝建築物・金堂から出火〕
〔被害状況〕金堂内陣が全焼、国宝の十二面壁画の大半が焼損
〔発生状況〕昭和24年1月26日午前7時頃、奈良県斑鳩町の法隆寺の国宝建築物・金堂から出火し、金堂内陣が全焼し、和銅年間(奈良時代)につくられたと推定される12面の壁画が焼失しました。12面の壁画のうち阿弥陀浄土図などは、インドのアジャンタ壁画と並ぶ、世界的な仏教壁画として知られていました。
 火災時、金堂の屋根は焼き抜かれ、火の粉があがりましたが、当時、法隆寺には91基の消火栓があり、裏山の大貯水池との落差は200mを活用して水圧が強く、五重塔の屋根に飛んだ火の粉は消し止められ、延焼はまぬがれました。
 法隆寺は現存する木造建築物のうち最古のものといわれていますが、建物の老朽化、金堂壁画の剥落が進み、文部省は昭和9年に法隆寺国宝保存事業部を設置して、昭和の大改修と呼ばれる保存事業を行いました。この事業は戦争の激化に伴い一時中断されましたが、昭和22年から金堂壁画の模写が再開され、その作業時に画家たちが使用した暖房用電気座布団の加熱が出火の原因として濃厚な疑いがもたれました。
 火災直後の昭和24年2月27日には、愛媛県松山市の国宝・松山城で火災が発生しました。相次ぐ国宝火災を重視した文部省は、国宝保存法、重要美術品等保存に関する法律、史跡名勝天然記念物保存法をひとつに統合し、文化財を保存し、その活用を図って国民の文化的向上に資する目的の法律として文化財保護法を翌25年5月に制定しました。
 さらに、昭和29年1月3日に金堂修復に伴う法要が行われましたが、文部省はそれを受け、翌30年から金堂火災が起きた1月26日を「文化財防火デー」と定め、毎年、全国の消防機関と共に文化財防火を呼びかけ、防火・防災訓練を行うこととしました。
 法隆寺金堂火災直後、金堂に自動火災報知設備があれば、壁画の焼失はまぬがれたのではないかという指摘がありました。法隆寺には当時、金堂には未設置であったものの、10基の自動火災報知設備がありました。しかし、消防庁の調べでは、10基とも故障中でありました。昭和41年12月の消防法施行令の一部改正で、重要文化財建造物への自動火災報知設備の設置が義務づけられましたが、それまでには、昭和25年7月の金閣寺放火火災、31年の比叡山延暦寺大講堂火災、昭和41年の大徳寺方丈火災など、国宝、重要文化財の火災があり重要な文化財が焼失しました。

1月23日【38豪雪】

〔昭和38年1月から2月にかけて、新潟県から京都府北部の日本海側を襲った雪害〕
〔被害状況〕死者231人、負傷者356人、家屋の全半壊1,717戸
〔発生状況〕昭和38年1月から2月にかけて、新潟県から京都府北部の日本海側を襲った雪害、いわゆる「38豪雪」は戦後最大の風雪災害です。
 昭和37年暮れの25日頃を境に、まとまって降り出した雪は、昭和38年1月3日頃から冬型の気圧配置が強まって北海道・東北は猛吹雪となりました。5日には秋田沖で低気圧が988ヘクトパスカルと猛烈に発達し本州は大荒れとなり、富山県では60戸が全半壊しました。
 このあと日本海側は大雪となり、北陸・上越の国鉄(現JR)は連日不通、運休が続きました。16日に新たな暴風で北海道、青森で漁船が遭難、一方、太平洋側は厳しい寒波に見舞われ、17日東京の最低気温は氷点下5.3℃、19日には湿度9%まで下がりました。このためガス漏れによる火災、水道管の破裂が続出しました。
 さらに20日には、低気圧が山陰沖から三陸沖に抜けて978ヘクトパスカルに発達したため、長野県伊那谷で1,600戸が屋根を抜き飛ばされる等の被害を受ける”冬はやて”が発生しました。
 その後、低気圧がゆるんでいわゆる山雪型から里雪型に変わり、23日から27日にかけて北陸一帯は大雪で、鉄道をはじめ交通機関が全てマヒ、26日には自衛隊の出勤となったほか、23日夕方に新潟駅を出た列車は6日間を要し上野駅に着いたのは28日朝になりました。
 この大雪による最深積雪量は、長岡市318センチメートル、富山市185センチメートル、福井市213センチメートル、東京では26、27両日に氷点下5.5℃の最低気温を記録しています。

1月9日【川崎市・金井ビル火災】

〔昭和41年(1966)1月9日午後0時58分、神奈川県川崎市本町の鉄筋コンクリート造地下1階地上6階建てビルの3階・キャバレー女性従業員更衣室から出火〕
〔被害状況〕死者12人、負傷者14人
〔発生状況〕昭和41年1月9日午後0時58分、神奈川県川崎市本町の鉄筋コンクリート造地下1階地上6階建てビルの3階・キャバレーの女性従業員更衣室から出火、4階の営業終了後のフロアで宴会を行っていた男性従業員が駆けつけましたが、初期消火に失敗し、火は3、4、5階の延641平方メートルを焼損し、5階と6階にいた者のうち12人が逃げおくれて一酸化炭素中毒で死亡し、14人が負傷しました。
 金井ビルは、地階が喫茶店、1、2階がパチンコ店、3、4階がキャバレー、5階が事務所と経営者住居、6階が従業員宿舎、屋上にプレハブ住宅が建てられており、典型的な雑居ビルという複合用途の防火対象物でした。
 火災が比較的小規模だったにもかかわらず、多数の犠牲者を出した特異性が注目されました。警報整備のスイッチがOFFで火災に気づくのが遅れたこと、消防機関の通報が遅れたこと、消防管理者が消防訓練や適正な消防設備の保守を行っていなかったことなど、指摘された問題点はこのあとの同種ビルの火災でも繰り返されることとなります。また、当時の梯子車が全伸梯17メートルで、5、6階への侵入ができず、建物の高層化への対応の遅れも消防の課題となりました。
 この火災では、焼損のない階にいた12人がダクトを通ってきた煙によって、一酸化炭素中毒死しました。このことから、煙制御の問題が大きく論議されることになりました。そのような中、耐火建造物における人命安全には煙制御が必要であること、建築物の竪穴を区画することが必要であるといった結論が、建築学会大会等で出されました。また、建築物の内装材の火炎伝播や新建材の燃焼時の有毒ガス発生の問題から建築材料の燃焼時の特性についても研究が進みました。これらの知見に基づいて、昭和44年の竪穴区画、昭和45年の排煙設備の規定など、建築基準法の大改正につながりました。

1月2日【タンカー・ナホトカ号原油流出事件】

〔平成9年(1997)1月2日午前2時51分頃、中国・上海からロシア・ペトロパブロフスクへ向け、航海中の、ロシア船籍タンカー・ナホトカ号が島根県隠岐島沖で船体を破損し、船尾部が沈没し、船首部分が漂流した〕
〔被害状況〕死者1人、島根県から秋田県の沿岸に漂着、環境、漁業に甚大な被害。
〔発生状況〕平成9年1月2日午前2時51分頃、中国・上海からロシア・ペトロパブロフスクへ向け、航海中の、ロシア船籍タンカー・ナホトカ号が島根県隠岐島沖で船体を破損し、船尾部が沈没し、船首部分が漂流するという事故が起きました。
 これにより乗員1名が死亡し、積載していた重油19,000キロリットルのうち、破断タンクから6,240キロリットル(推定)が流出し、船首部分には2,800キロリットル(同)を残したまま漂流しました。
 流出した原油は荒天続きで海上で油処理剤をほとんど散布できなかったこともあって、1月7日朝、福井県三国町の安島岬付近の海岸に漂着し、ついで石川県加賀市の海岸に漂着しました。同7日午後2時30分頃には、漂流していた船首部分も三国町安島岬沖1キロメートルの岩場に座礁し、新たな流出源となりました。
 油は対馬海流に乗り、さらに広がり、富山県をのぞき島根県から秋田県までの日本海側1府8県の海岸に漂着しました。
 漂着現場では一部でバキュームポンプを使用した油回収作業も行われましたが、海岸が断崖であったり、回収機材が漂着場所へ接近困難で、バケツ、ひしゃくを使った人海作戦に頼らざるを得ませんでした。この作業には、消防職員、消防団員、町職員、漁業関係者など地元住民のほか、28万人を超えるボランティアなどが参加しました。しかし流出した原油は精製過程の最後の段階に出来る不純物の多いC原油で、キシレン、エチルベンゼンなど危険物による健康被害も考えられ、作業は困難を極めました。
 回収作業にからんで、過労などが原因で4人が死亡するという、痛ましい犠牲もありました。自治省消防庁も、衛星中継を利用した画像伝送システム等の機能を有する現地活動支援車を派遣するなど、活動の支援を行いました。
 福井県三国町も3月いっぱいでボランティアの受け入れを終了し、被災各地も順次これに続いて終了、約3カ月にわたる、困難な回収作業でありました。

12月26日【らくらく酒場火災】

〔昭和51年12月26日午前1時30分頃、沼津市の複合用途三沢ビル(耐火)1階から出火〕
〔被害状況〕死者15人、傷者8人
〔発生状況〕放火の被疑者の供述によると「入り口ドア内側階段の上がり踊り場に段ボール箱を持ち込んで火を着けた。」出火した火勢は、壁面の可燃性クロス張りの板を伝わって延焼し、階段室内を爆発的に延焼させ、この爆燃により(1階出入口ドア近くにいた通行人が火傷を負っている。)、2階「らくらく酒場」店内に延焼拡大し、多くの死傷者を出しました。
 当ビル1階から2階に通じる階段の1階及び2階の出入口には扉があり、1階階段室で段ボールが燃え、可燃性クロス張りの内装材等に着火して発生した燃焼生成ガス(可燃ガス)が充満しました。このような事態のとき、通行人が1階入り口扉を少し押し空いたため、爆発的(通報者は「爆発しています」と付け加えている。)に延焼しました。また、2階入り口扉は閉められていたため、煙は隙間から徐々に侵入しましたが、煙に気づいた者が扉を開いたため、一斉に猛煙が室内に流れ込んで、15名が煙に巻かれて死亡する惨事となりました。
2階開口部が装飾用の内装材により、封鎖されていたため、避難上及び消火活動の障害になりました。また、屋外階段に通じる非常口前にロッカー、植木等が置かれていたため、避難障害となりましたが、支配人とホステス3人は屋外階段から、酒場主任とホステス2人は屋外階段から3階に上がり、窓から北隣りの木造2階建ての屋根に飛び降り避難しました。避難できた者はいずれも建物の構造をよく知っている従業員であり、客は全員死亡しています。

12月18日【三菱石油(株)水島製油所重油流出事件】

〔昭和49年12月18日午後8時40分頃、岡山県倉敷市の水島臨海工業地帯で、三菱石油(株)水島製油所の公称容量5万キロリットルの屋外タンクの底板が裂けて、65~95℃の温度に加熱された重油4万2,888キロリットルが噴出〕
〔被害状況〕流出油は岡山県沿岸から、さらに対岸の香川、徳島の両県域までおよび、瀬戸内海東部一帯に深刻な海洋汚染を引き起こしました。海上流出量は7,500キロリットルないし9,500キロリットルと推定され、内海への原油流出事故としては世界最大級の規模となり、瀬戸内海の養殖ハマチ、海苔、牡蠣などの水産業に約168億円の被害を与えました。
〔発生状況〕重油は同タンクに設けられた鉄製の直立階段を基礎もろとも押し飛ばし、防油堤上に叩きつけました。そのため、長さ約7.3m、高さは最大部分で頂部から基部へ約1mにわたって防油堤が破壊され、工場構内に重油が流出し、さらに排水溝や9号桟橋付近から水島港へと流出しました。これに対し、港内の数カ所にわたってオイルフェンスの展伸等が行われましたが、事故発生の翌19日夕方には水島港外に流出して、日時の経過と共に広範囲に広がり岡山沿岸はもとより、香川県、徳島県等瀬戸内海東部一帯に及びました。
 石油コンビナート地帯の総合的な防災対策の必要性から、昭和50年2月「石油コンビナート等災害防止法案」の立案作業に入り、同法は昭和50年12月公布、昭和51年6月より施行されました。

12月6日 【蒲原沢土石流災害】

〔平成8年12月6日午前10時30分頃、長野県、新潟県の県境に位置する蒲原沢の長野県側・小谷村湯原の国境橋附近で大規模な土石流発生〕
〔被害状況〕死者13人、行方不明者1人、負傷8人
〔発生状況〕平成7年の梅雨前線豪雨災害に伴う新国界復旧工事の現場作業員が巻き込まれ、死者13人、行方不明者1人、負傷者8人を出す惨事となった。科学技術庁の調査によれば、標高1,300m地点の土砂崩壊が引き金になって土石流が発生したとみられている。蒲原沢に建設中の新国界橋近くの標高350mまでの約2.7㎞を約3分で流れ下り、土石流の平均速度は時速54㎞と推定された。
 消防庁は災害発生後、即座に消防庁次長のもとに災害対策連絡室を設置し、さらに新潟、消防庁職員を先遣チームとして3名を現地に派遣し、さらに新潟、長野両県からの要請を受けて、東京消防庁、名古屋市消防局に対し、緊急消防援助隊としての出勤を要請した。東京消防庁は47名、名古屋市消防局は7名の隊員を、最新の資機材とともに派遣した。緊急消防援助隊は阪神・淡路大震災を教訓として平成7年6月30日に発足したが、これが最初の出勤となった。

11月16日【世田谷電話局洞道火災】

〔昭和59年11月16日、東京都世田谷区太子堂の、通信ケーブル専用洞道内で発生した火災〕
〔被害状況〕世田谷区、目黒区の一般加入電話8万9,000回線、テレックス専用線4,000回線が不通。また世田谷区内に全国のオンライン集中事務局センターを置く三菱銀行や、東日本地域の支店を結ぶ拠点をおいていた大和銀行のオンラインシステムが麻痺し、住民生活、経済活動に大きな支障をきたした。また119番、110番の緊急通報も不能となり、高度情報化社会の意外な脆さを白日にさらした火災だった。
〔発生の状況〕午前11時46分頃、世田ヶ谷電報電話局前の、通信ケーブル専用洞道内で火災が発生し、直径7センチメートル通信ケーブル98本、164メートルを焼損した。出火の原因は、ケーブル補修工事のバーナーの火がぼろ布に引火し、それがさらにケーブルのポリエチレン被覆に移ったためだった。
 洞道内は濃煙に満ち、これに含まれる火災ガスが消火活動を大きく阻害し、また注水に対して強烈な熱風が吹き返すという状況で、消防隊の活動は困難を極めた。しかし、消火用筒先を配置し、30分以上の時間をかけて1メートル前進するという粘り強い消火活動の結果、覚知から16時間45分後の翌17日午前4時37分に鎮火した。
 自治省(総務省)消防庁では庁内に「洞道等に関する消防対策検討会」等を設け、消防対策を検討し、洞道等の占有者等に対しては出火防止対策、ケーブルの延焼防止対策等の推進を諮るよう指導したほか、火災が発生した場合の消火活動に重大な支障を生じるおそれのある洞道等について市町村の火災予防条例規則により、届出を義務づける等、安全対策の推進を図るよう指導した。

11月6日【北陸トンネル列車火災】

〔昭和47年(1972)11月6日午前1時13分頃、北陸トンネル内で急行列車の火災〕
〔被害状況〕死者(乗客29人、乗員1人の計30人)、負傷715人。
〔発生の概要〕福井県敦賀市葉原の国鉄(現JR)北陸本線敦賀―南今庄駅間にある北陸トンネル(全長13.87キロメートル)内を時速60キロで進行中の、大阪発青森行きの急行「きたぐに」(乗客761人)の11両目の食堂車で火災が発生した。乗客からの通報を受けた車掌は非常停止の手配を行い、列車はトンネル内の敦賀方向入口から約5キロの地点で停止した。はじめ列車関係職員が消火に努めたが困難となり、また火災の影響で停電も発生、トンネル内には煙と熱気が充満し、多くの死傷者を出す惨事となった。
 当時の国鉄のマニュアルによれば、「火災発生時はただちに停車し、出火車両を切り離す」こととなっており、とくにトンネルの内外の区別はなかった。乗務員は、忠実にこのマニュアルを実行に移したのだが、かえってそれが長大トンネル内の列車火災という事態を招き、避難誘導に時間を要したため、煙とガスによる被害を大きくしてしまった。事故後、国鉄はただちに鉄道火災対策委員会を組織し、また実際の車両を使ったトンネル火災実験を行い、同種の災害に対する対策を練った。その結果、1)車両の不燃化、難燃化の促進、2)トンネル内で万が一火災が起きた場合は停止せず、出るまで突っ走るの2点を骨子とする改革案を定め、実行に移した。

11月2日【旅館池坊満月上火災】

〔昭和43年(1968)11月2日、神戸市兵庫区(現北区)有馬町の観光旅館・池之坊満月城の火災〕
〔被害状況〕宿泊客ら死亡30人、負傷44人、焼損面積69,500平方メートル、損害額は2億515万円にのぼった。
〔発生の概要〕日本最古泉といわれる有馬温泉の、観光旅館・池之坊満月城の地下1階から午前2時30分頃に出火。同旅館は、無計画な増築を行い、数棟の建物を連結して一棟の建造物とした「鉄筋コンクリート造一部軽量鉄骨モルタル塗、地下3階一部4階、地下2階建」という複雑な重層構造で、さらに出火点が地下1階だったためドラフト現象を起こし、上層への開放部分から延焼が急速に進み、多くの死傷者を出す火災となった。
 同旅館の自衛消防隊の編制は昼間のみで、火災が起きた夜間の体制は数名規模のため火災の感知が遅れ、その後、バケツによる初期消火が若干行われたが、屋内消火栓等を使っての効果的な消火活動がなく、また従業員による避難誘導も不徹底だったために被害が拡大した。神戸市消防局はこの火災以前に十数回の警告を行っていたが、池之坊満月城では自動火災報知装置を全館にわたっての設置を怠っていた。建物自体の複雑な構造のほかに、内装材が可燃材料であったことも、火の回りを速くし、煙の量も多くした。
さらに28分後という通報の遅れがあり、消防隊の到着時にはすでに広範囲に延焼し、別館「吟松閣」の1、2階、本館「中の丸」の部分は火の海で、破した窓から隣接する建築物の看板に炎が吹きつけ、延焼寸前の状態で守勢的防ぎょをせざるを得ない状態だった。

10月29日【酒田市大火】

〔昭和51年(1976)10月29日午後5時40分頃、風雨波浪注意報の発令下酒田市繁華街の中心地・映画館グリーンハウスから出火。折からの平均風速20m以上の強風に煽られ大火となった。〕
〔被害概要〕死者1人(消防長)、負傷1,003人、罹災世帯1,023世帯3,301人、焼損棟数1,774棟、焼損面積152,105平方メートル
〔発生の概要〕酒田市中町2丁目の映画館グリーンハウスから出火。火元建物が大型木造建築物であったため火の回りが早く、初期消火が困難であった。火災の初期においては隣接の大沼デパート棟の耐火建築物に阻止され徐々の拡大であったが、折からの平均風速20m以上の強風に煽られ、木造の可燃性の高い建物に接火着火し、そこからまた熱放射、飛び火による着火を繰り返し、単独あるいは複合して火災が広がり、中町から二番町、一番町、新井田町の街区へ延焼、翌30日午前5時頃の鎮火まで、約11時間燃え続ける大火となった。
 この火災は、戦後毎年繰り返し発生した大火が、昭和44年5月の石川県加賀市で発生した焼損面積33,810平方メートル以来、大火ゼロを保ってきただけに関係者に大きな衝撃を与えた。
 強風下での消防力の限界等の問題も指摘され、強風下の警戒態勢(非常招集、待機等)に万全を期し、住民に対する協力要請を徹底し、早期通報と同時に、住民の協力による初期消火に努めることが、教訓として挙げられた。

10月26日【西宮LPGタンクローリー転覆火災】

〔昭和40年(1965)10月26日3時15分頃(推定)、覚知3時23分、西宮市西町の第二阪神国道でLPGローリー転覆(4トン)炎上火災〕
〔被害状況〕死者5人、負傷21人、建物全焼17棟、半焼・一部損壊16棟、タンクローリー1台、自動車焼損9台、損壊23台
〔発生の概要〕西宮市西町の第二阪神国道でLPGローリーが運転を誤り仰向けに転覆し、車輪を真上に向け、歩道橋に激突停止した。調べによるとタンクローリーは、転覆の直前60キロ以上のスピードで、ジグザグ運転していたと判断され、転覆の際、安全弁と液面計が破損し、安全弁は、ボンネット及びバルブスラムが破損、直径4センチ程度の穴があき、ガスは主としてここから噴出したものとみられる。
 噴出したガスは、付近の道路側溝の集水ますより下水道を経て各家庭の台所、風呂場等に流れ込んだ。また、地上部分に流出したガスは、U字溝を伝わり、あるいは風に流され拡散した。国道南側は、国道より若干低かったので多量のガスが流れたと見られ、火災被害が大きく、北側は、国道より若干高かったため比較的被害が少なかったが、甚大な被害を出す惨事となった。
 着火源としては、家庭用冷蔵庫の火花、付近でのアスファルト熔解の種火、自動車エンジンのスパーク、ガス器具の種火、その他の火気かと考えられている。
 液化石油ガス等の貯蔵、取扱に関する届け出を義務化させた消防法の改正が行われた。

10月11日【安部整形外科医院火災】

〔平成25年10月11日、福岡市の「安部整形外科」診療所火災〕
〔被害状況〕死者10人、負傷5人、焼損床面積282平方メートル(耐火構造4階、地下1階、建築面積219.3平方メートル、延床面積681.7平方メートル)
〔発生の概要〕自動火災報知設備のベルの鳴動を受け、地下1階にいた当直の看護師が1階処置室北東附近から火が上がっているのを確認。その後1階玄関ドアの鍵を地下1階の休憩室に取りに行き解除した後、火災が拡大したため、通りがかったタクシーの運転手に依頼、運転者が110番通報し、警察から消防に通報された。
 火災発生当時、院内には17人(入院患者12名、当直看護師1名、4階看護師寮に2名、3階自宅に居住していた前院長夫妻)がいた、入院患者8人と前院長夫妻2人が死亡した。
 なお、遺体の状況などから、死因は火災の煙による一酸化炭素中毒とみられ2階の入院患者の多くが病室のベッド上で発見されている。
 問題点・教訓は、階段部分の防火区画(竪穴区画)を形成する防火戸が閉鎖せず、階段室等を経由して早期に煙が上階へ伝播し、病室等に流入したこと。入院患者には、高齢、介護認定を受けた人が多く、有効な避難誘導が行われていないなど、夜間における防火管理体制が不十分であったことなどがあげられる。
 この火災を受けて、平成26年に消防法施行令の改正が行われ、スプリンクラー設備の設置義務付け、及び令別表第1の(6)項の細分化等の強化が図られた。

10月3日【三宅島噴火】

〔昭和58年10月3日15:23頃、雄山南西山腹に生じた割れ目から噴火、降下火砕物、溶岩流、火砕サージが発生〕
〔被害状況〕住宅の埋没・焼失棟数約400、人的被害はなかった。
〔発生の状況〕雄山南西山腹に生じた割れ目から噴火。溶岩噴泉。溶岩流は主に3方向に流れ、南南西に流れたものは粟辺を通り海中に達した。西方に流れたものは阿古地区の住家を埋没し、海岸近くで止まった。また島の南部新澪池付近とその南の新鼻の海岸付近で、マグマ水蒸気爆発が発生し、多量の岩塊が周辺に落下し、多量の火山灰が東方の坪田周辺に積もった。溶岩の流出は翌日早朝にはほぼ止まった。
 同島では、度々噴火を繰り返していて平成12年6月末から始まった噴火では、有毒な二酸化硫黄を主成分とする火山ガスが1日に数万トンも放出する活動が続いたため、9月2日から全島民の島外避難となった。その後も火山ガスの放出が続き、平成17(2005)年2月1日、ようやく避難指示が解除された。

9月26日【伊勢湾台風】

〔伊勢湾台風(台風第15号)は、昭和34年9月26日午後6時18分頃和歌山県潮岬北西に上陸、紀伊半島を縦断し、中部山岳地帯を経て、新潟県直江津市(現上越市から海上に抜け、ふたたび秋田県能代市付近に上陸、青森県東部に抜けるコースをたどった)〕
〔被害概要〕被害は九州を除く全国におよび、死者4,700人、行方不明401人、負傷者38,917人、全壊棟数40,838戸、半壊棟数113,052戸、また船舶の被害も大きく沈没、流失、破損7,576隻に上った。
〔発生の状況〕超大型の台風で上陸時の最低気圧は929.2ヘクトパスカルで「第2室戸台風」に次ぐ気圧の低い台風であった。
 名古屋市内を通過した午後9時30分頃は、平均風速33メートル、最大瞬間風速47.8メートル、被害の大部分は高潮によるもので、伊勢湾での最高潮位は平均潮位上3.89メートルとなり、海抜0メートル地帯で甚大な被害をだした。愛知県のみで3,168人の死者を出し、長期の湛水による都市機能の麻痺、農地の被害など総被害額3,224億円と巨額となった。
 この台風の後、各省庁の行政もとにおかれ、相互に関連のなかった防災行政を一本化し総合的な防災行政が求められ、昭和36年11月に「災害対策基本法」が公布され、災害緊急事態に対処しうる体制が整えられることになった。

9月15日【第2室戸台風】

〔昭和36年(1961)9月15日~17日、台風第18号による暴風被害〕
〔被害状況〕死者194名、行方不明8名、負傷4,972名、全壊棟数15,238、半壊棟数46,663、大阪湾で高潮被害、農作物被害は伊勢湾台風を上回る。
〔発生の概要等〕9月8日に発生した台風第18号は、中心気圧が900hPa未満の猛烈な強さの台風となった。進路を次第に北寄りに変え、15日朝奄美大島を通過。その後北東に進み、16日09時すぎ室戸岬の西方に上陸した。13時過ぎには兵庫県尼崎市と西宮市の間に再上陸、18時に能登半島東部に達し日本海に出た。日本海沿岸を北北東に進み、北海道西岸をかすめてオホーツク海に進んだ。
 室戸岬(高知県室戸市)では最大風速66.7メートル/秒(最大瞬間風速84.5メートル/秒以上)、大阪で33.3メートル/秒(同50.6メートル/秒)、新潟で30.7メートル/秒(同44.5メートル/秒)など、各地で暴風となった。
 この暴風や高潮による被害が大きく、雨による被害は比較的小さかった。大阪市では高潮により市の西部から中心部にかけて31平方キロメートルが浸水したが、過去の同様な規模・進路であった室戸台風、ジェーン台風に比べると浸水面積は小さく、人的被害も小さかった。 また、兵庫県、和歌山県、四国東部でも高潮による浸水被害があった。台風の通過した近畿地方と吹き返しの強い風の吹いた北陸地方で暴風による家屋の倒壊等の被害が特に大きかった。
 また、「第2室戸台風」は、室戸岬の西に上陸で925hPaと台風上陸時の中心気圧が最も低い台風で、第2位は「伊勢湾台風」で和歌山県潮岬の西に上陸時929hPaとなっている。

9月1日【新宿区歌舞伎町・明星56ビル火災】

〔平成13年(2001)9月1日、調査中、東京都新宿区歌舞伎町の小規模雑居ビル「明星56ビル」火災〕
〔被害状況〕死者44名、負傷3名、焼損面積160平方メートル半焼(耐火構造一部その他構造、地下2階地上5階、建築面積83平方メートル、延べ床面積 516平方メートル)
〔発生の概要〕発見=「店のドアを開けたら黒い煙が勢いよく室内に入ってきた。」と、3階の遊技場従業員は、供述している。店内の客や従業員には知らせたが、消防への通報は行われていない。また、ビルに設置されていた自動火災報知設備は作動した形跡はなく、初期消火も行われていない。
通報=00時59分「明星56ビル3階から人が地上に落ちました。」と救急要請が第一報で、その2分後に外部者から火災通報され火災と判明。
当ビルは、5階建ての小規模雑居ビルで階段は室内に1か所で、3階のエレベータホール付近から出火、この階段室にロッカーやビールケースなどの可燃物が大量に置かれており着火炎上。また、これにより店舗の入口に設けられていた防火戸が閉鎖されなかったため、3階、4階の店舗に濃煙、熱気が一気に充満多くの犠牲者を出した。
この火災を教訓に、消防機関による立入検査制限等の見直し、消防機関・消防吏員による措置命令、防火対象物の定期点検報告制度、特定一階段防火対象物部への消防用設備等の設置強化など消防法等の改正が行われた。
・消防活動の概要は「事例で学ぶ特異火災の対応と教訓」竹内吉平著 を参照ください。

8月24日【超高層マンション・スカイシティ南砂火災】

〔平成元年8月24日、午後3時0分頃、東京都江東区南砂の28階建ての超高層マンション「スカイシティ南砂」24階から出火〕
〔被害状況〕耐火造28階、地下1階、建築面積2,067平方メートル、延べ面積3万3,209平方メートル、焼損24階159平方メートル、共用部分51平方メートル、バルコニー天井25平方メートル、エレベーター1基、負傷6人
〔発生の概要〕スカイシティ南砂火災は、日本最初の超高層マンションの延焼火災となった。出火建物の管理会社社員が自動火災報知設備により火災を覚知して24階に至りベランダでうずくまっていた女性を発見し、背負って特別避難階段から階下に救助した。
 また、清掃していた不動産従業員が廊下に出たところきな臭いにおいがしていたので、特別避難階段で24階へ行くとエレベータホールが煙で充満していた。ベランダに出ると、女性がうずくまっていたので声をかけたが返事がなかった。抱き上げてこの女性を背負い西側の特別避難階段から2階まで搬送した。
 出火点の24階は約63メートル高さにあり、先着隊は、連結送水管にダブル送水し、第1線は避難階段から24階廊下に進入したが、濃煙熱気の噴出が激しく内部に進入できる状態ではなく、玄関から内部に注水した。

◆本火災の消防活動の詳細は、「事例で学ぶ 特異火災の対応と教訓」(竹内 吉平著)をご覧下さい。
http://www.ff-inc.co.jp/syuppan/keibou.html

8月16日【静岡駅前ゴールデン街ガス爆発事故】

〔昭和55年(1980)8月16日、午前9時30分頃、静岡市の静岡駅前(紺屋町)ゴールデン街にある地上6階地下1階建ての第一中央ビル爆発炎上〕
〔被害状況〕死者15名(消防職団員5名)、負傷222名(消防職団員30名)、火元第1ビルは全焼、全半壊53戸(店舗・住宅)<一部損壊131戸、消防車両の大破炎上2両、小破1両、被害額5億5,400万円
〔発生の概要〕午前9時30分頃、第一中央ビル地下の飲食店「菊正」で、従業員が湯沸器に点火しようとしたところ、爆発が起き、同店との隣の「ちゃっきりずし」、奥の機械室などを大破。地上では直上に相当する1階「ダイアナ靴店」の閉鎖してあったシャッターが吹き飛んでしまった。菊正の従業員は隣のレストラン「桃山」に駆け込んで119番の連絡を依頼している。
通報を受けた静岡市消防本部の先着隊は33分に現場に到着、火災は発生していなかったが、人命検索、放水準備及びガス検知調査に入った。35分には警戒区域設定、45分には地下への出入口閉鎖を完了、48分には地下で相当量のガスを検知、爆発限界を超えて危険だった。しかし、野次馬は制止を聞かず、現場へ近づき現場をのぞき込むその野次馬を押し返し、50メートル離れたところに非常線を張る。それとともに連絡階段に送風機を据え付けガスの希釈、拡散を図ろうとした。
9時56分に大爆発が発生、第一中央ビルは火焔に包まれた。同ビル前に部署した消防車も爆風により変形、破損し、焼けただれ、この第2回目の大爆発で消防隊員を含む多数の死傷者が発生する大惨事となった。
第1回目の爆発は、菊正の従業員2名が無事であった、ということから小規模のものでてあったということができる。もちろん直上階のダイアナのシャッターが吹っ飛ぶほどはではあった。第2回目の爆発は、コンクリートの床、壁も大きく湾曲するなど凄まじい爆発で死者15人、負傷者222人大惨事となった。
この火災がキッカケで、防火対象物の項区分として「準地下街」が追加され、ガス漏れ火災警報設備の設置が地下街、準地下街及び特定防火対象物の地階に義務付けられた。

8月7日【有珠山噴火(北海道)】

〔昭和52年(1977)8月6日、03:30から有感地震多発。7日、09:12山頂火口原(小有珠南東麓)から軽石噴火(プリニー式噴火)を開始、噴煙は1時間後に高さ12000mに達したが、噴火は2時間半足らずで一旦休止。その後もマグマ水蒸気噴火も多発し、10月27日まで噴火活動を繰り返した。〕
〔被害状況〕10月16日と24日には降雨により有珠山全域で二次泥流が発生し、死者2人、行方不明者1人、軽傷者2人、住家被害196棟、農林業・土木・水道施設等に被害を生じた。
 有珠山は、長期にわたる活動休止期を経て、噴火を開始したのは、1663年(寛文3年)で、歴史時代最大規模のものでそれから今日まで江戸時代に5回、明治以降4回噴火している。
 1943年(昭和18年)から北麓で有感地震が頻発しはじめた。地震の頻発とともに地盤の隆起がはじまり、隆起していた麦畑の中から突然に噴火がはじまり、粘性の高いマグマが屋根山の上に盛り上がって、溶岩ドームを形成しはじめ1945年(昭和20年)9月に活動を停止した時には海抜406.9メートルに達した。この溶岩ドームは、「昭和新山」と名づけられた。
 その後、2000年(平成12年)3月31日、山腹からマグマ水蒸気爆発を発生させたが、この噴火は的確に予知され、危険地区の住民は、噴火前に避難を完了していたため、人的被害は全くなかった。





7月31日【陽気寮火災(神戸市)】

『陽気寮火災』(神戸市)
〔昭和61年(1986)7月31日、午後11時40分頃、神戸市 知的障害者授産者施設・陽気寮の火災〕
〔被害状況〕死者8人、「陽気寮」鉄骨2階建延べ面積1,027平方メートル全焼、「よろこび荘」829平方メートル半焼
〔発生の概要〕出火とともに自動火災報知設備が鳴動し、当直の職員がそれに気づき「どうした」と問うが、入所者は「誰もベルを押していない」との返事だった。もう一人の当直員は廊下から煙を発見し、一旦消火器で7号室の火を消そうとしたが消火できず、直ちに避難誘導に切り替えた。屋内消火栓で消そうとしてホースを伸ばした職員もいたが、慌てて起動ボタンを押さなかったため、放水できなかった。
 近くの宿舎から駆けつけた理事長はじめ職員の誘導によって多くの入所者を介護しつつ、避難させたが、火に興奮して、再び室内に逃げ込むものも出て混乱、消防機関が覚知するまで23分かかったことが被害を拡大した。
 この火災で男性の入所者8名が死亡した。いずれも自力で避難することが不能又は困難な者であった。しかし、職員及び駆けつけた者の努力で96名を避難させている。

7月23日 【昭和57年7月豪雨(長崎豪雨)】

〔昭和57年(1982)7月23日~25日にかけて低気圧が相次いで通過し、梅雨前線が活発となり、長崎では3時間に313.0ミリの豪雨となりなり、長崎市を中心に大きな被害が発生〕
〔被害状況〕死者427人、行方不明12人、負傷1,175人、住家全壊1,120棟、半壊1,919棟、床上浸水45,367棟、床下浸水166,473棟
〔発生の概要〕7月10日から20日にかけて、ほぼ毎日西日本の所々で日降水量が100ミリを超える大雨となり、600~800ミリに達していた。
 23日から25日にかけては低気圧が相次いで西日本を通過し、梅雨前線の活動が活発となった。特に長崎県では23日の20時頃から1時間100ミリを超える猛烈な雨が続いた。長崎市では3時間余りで313ミリの短時間豪雨となり、市内各河川の氾濫、鉄砲水、山津波、土石流などにより、死者・行方不明299名と、数多くの家屋の倒壊、浸水など甚大な被害を引き起こした。
 また、帰宅時のラッシュと重なったため、多くの車が濁流に次々と流され、土石と一緒に転落埋没した。長崎市内における放置された自動車は、路上で1,204台、河川、空地、駐車場等で364台であった。

7月11日  【東名高速道路・日本坂トンネル火災】

〔昭和54年(1979)7月11日、午後6時38分頃、静岡県焼津市と静岡市の堺の東名高速道路日本坂トンネル内の下り線での車両火災〕
〔被害状況〕死者7人、負傷2人、車両186台焼失、損害額8億4,100万円
〔発生の概要〕日本坂トンネル内下り線で、大型トラックと乗用車5台が玉突き衝突を起こし、燃料のガソリンが火花により引火爆発、さらにトラックの積荷の合成樹脂、揮発性油等が炎上し、トンネル内で数珠つなぎになって停止した車両に次々と延焼し、車両189台を焼損する道路トンネル内の最大規模の惨事となった。追突によって車内に取り残された7人が死亡、2人が負傷し、トンネル内での消火作業は想像を絶する高温下で困難を極め、覚知から約160時間後の18日午前10時ようやく鎮火した。大動脈の東名高速道路が寸断され物流に大きな支障をきたすとともに周辺道路は大渋滞を起こした。
 その後、道路トンネル内における非常用施設の設置について、トンネル等級ごとに通報、警報設備、消火設備、避難誘導説火等の設置基準が定め、これらの施設の運用基準も具体的に定められた。

6月19日  【温泉施設爆発火災】

〔平成19年6月19日、午後2時すぎ、東京都渋谷区の女性専用温泉施設シェスパの別棟〕
〔被害状況〕死者3人、負傷8人
〔発生の概要〕渋谷区の繁華街で発生した温泉採取施設の爆発火災により施設従業員、通行人まで巻き込み惨事となった。この施設は、地下1,500mから温泉を汲み上げるもので、地下1階に設けられた汲み上げポンプにより、地下から温泉を汲み上げていたが、それに伴い発生する可燃性ガス(メタンガス)の外部への排出処理が適切に行われていなかったため、充満した可燃性ガスが何らかの理由により引火・爆発したものとされている。この施設は、爆発火災により地階はもちろん、1階の従業員控室を含め、鉄骨造りの屋根まで爆破され、それにより周辺の数多くの建築物に被害を与えた。
 本事故を教訓に、この種の温泉の採取のための設備が設置されている施設にもガス漏れ火災警報設備の設置対象として強化された。

6月12日(木) 【1978年宮城県沖地震】

〔昭和53年6月12日、午後5時14分頃、宮城県沖100キロメートルを震源とするM7.4の地震が発生〕
〔被害状況〕死者28人、負傷1万1,028人、火災12件、全壊1,368戸、半壊6,067戸、
〔発生の概要〕地震による被害区域は東北から関東に及ぶ大規模な災害になった。特に宮城県、岩手県、福島県の太平洋に面した地域の被害が大きかったが、津波による被害はなく、幸に地域住民の火の始末が的確だったため火災による二次被害はほとんどなかった。しかし、死者28名のうち17名がブロック塀、石塀の倒壊による下敷きで死亡したこと、電気、水道、ガス等のライフラインの被害による都市機能のマヒなどが問題になった。
 建設省(現国土交通省)は、昭和43年の十勝沖地震の建物は概に対する反省から総合技術開発プロジェクト「新耐震設計法の開発」行われていたが、宮城県沖地震の地震被害で妥当性が実証され昭和55年に建築基準法施行令の改正が行われた。主な改正点は、
・大地震に対する安全性を確認するための構造計算として「二次設計」を新設。構造形式等に応じ、3つの計算ルートのいずれかを適用
・地震力の計算方法の見直し(水平震度時代の終わり)
・木造、鉄筋コンクリート造、補強コンクリートブロック塀等の仕 様規定も強化  など

6月6日(水) 【特別養護老人ホーム・松寿園火災】

〔昭和62年6月6日、午後11時20分頃、東京都東村山市 特別養護老人ホーム松寿園〕
〔被害状況〕死者17人、負傷25人、焼損面積 耐火造3階建延べ面積2,01平方メートルのうち2階部分450平方メートル
〔発生の概要〕松寿園は、高齢者収容施設で在園者の平均年齢は82.3歳であった。同園は消防設備、防火管理者の選任、消防計画の作成・届出、避難訓練の実施など関係法令に適合しており、また厚生省令に基づく特別避難階段も2か所備え、屋内消火栓設備、非常用放送設備を自主設置するなど、ハード、ソフト面の防災対策はかなりの水準を維持していた。
 しかし、17人もの死者を出す原因となったのは、当日の当直が2名では在園者74人に対応しきれなかったこと、初期消火、通報に手間取ったことがあげられるが、なにより自力避難が困難な災害弱者を収容する施設であったことがあげられる。
 前年の神戸市の知的障害者授産・収容施設「陽気寮」に続いた火災を受け、スプリンクラー設備の設置基準1,000平方メートル以上、火災通報装置及び一人で操作ができる屋内消火栓設備の基準の整備がはかられた。

5月24日(日)【チリ地震津波】

〔昭和35年5月23日、午前4時11分頃(日本時間)南米チリ南部沿岸M9.5、1900年以降一番の巨大地震〕
〔被害状況〕日本で、死者122人、行方不明17人、負傷872、全壊1,571棟、流失1,259棟、
〔発生の概要〕南米チリ南部沿岸で起きたM9.5の巨大地震は、チリ沿岸で10~20mの大津波を発生させ、これが環太平洋全域に波及し、なかでもハワイ諸島と日本に大きな被害をもたらした。
 津波は一昼夜をかけて翌24日震源から約1万7,000km離れた日本に到達し、北海道から沖縄に至る太平洋沿岸で4m前後の波高になり、高いところでは6mに達した。
 特に、岩手県大船渡市(死者50人)、宮城県志津川町(現南三陸町)(同37人)、北海道浜中村(現浜中町)(同11人)の被害が大きかった。
 津波警報を出すのに十分な時間があったが、日本沿岸でこれほどの規模になるとは予想されず発令がなかった。この災害を機に、このような遠地津波に対する国際協力に基づく津波警報システムが確立されることとなった。

5月13日(水) 【千日デパートビル火災】

〔昭和47年5月13日、午後10時27分頃、大阪市南区(中央区)難波新地の複合用途の千日デパートビル〕
〔被害状況〕死者118人、負傷81人、焼損面積9,736平方メートル
〔発生の概要〕千日デパートビルの3階「スーパーニチイ千日前店」で電気配管の改装中、婦人服売り場付近から出火、鉄骨鉄筋コンクリート造一部鉄骨造、地上7階地下1階の同ビル2階から4階の9,768平方メートルを焼失する火災となった。
 出火当時、7階のアルバイトサロン「プレイタウン」は営業中で、客、従業員、バンドマンなど179人が滞在していた。出火階には大量の衣料品あり、しかも化学繊維製品が多かったため猛煙が立ち上り、エレベータ、ダクト等を伝わって、7階のプレイタウン店内に充満した。滞在者のうち、22人が飛び降り死亡、96人が窒息死した。
 保安員が7階関係者に火災が起きたのを通報しなかったこと、プレイタウン側の誘導避難が遅れたこと、避難者が救助袋の使い方を誤ったこと、衣料品や新建材が有毒ガスを出して燃えたことなど多くの要素が重なったための大惨事。この最大の死者118人というビル火災は、多くの教訓を残した。
 防火管理、共同防火管理体制の強化、消防用設備等の基準の強化はじめ、既存建物への遡及適用についてもこの教訓をもとに強化された。

5月6日(木)【柿の木坂タンクローリー火災】

〔昭和60年5月6日、午前11時30頃、環状7号外回り目黒区柿の木坂付近〕
〔被害状況〕負傷1人、全焼1棟、ぼや5棟、セミトレーラー型タンクローリー1台焼失
〔発生の概要〕柿の木坂付近を走行中のセミトレーラー型タンクローリーが、急ブレーキをかけたところ、雨に濡れた路面でスリップし、並行中のの乗用車に衝突して横転。積載していたガソリン16,000リットル、軽油4,000リットルが漏洩し、引火して火災になった。
 東京消防庁は消火・延焼防止活動に努めるとともに、火災警戒区域を設定、付近住民にガス、電気の使用を控えタバコも吸わないように広報活動と、避難誘導により比較的軽微にすんだ。
 この事故を踏まえ、その管轄内にある移動タンク貯蔵所ついて、応急措置命令等ができるよう改正された。

4月27日(月) 【呉市山林火災】

〔昭和46年4月27日、午前11時10分頃、広島県呉市広町の山林〕
〔被害状況〕消防職員18名殉職、焼損面積340ヘクタール
〔発生の状況〕昭和46年4月27日、午前11時10分頃、呉市広町の民有林で、道路整備作業にあたっていた作業員の昼食用のお茶を沸かすためたき火をしたところ東南東の強い風にあおられて崖の枯草に燃え移り、異常乾燥注意報、火災警報発令中のという悪条件のもと、一挙に拡大林野火災となった。
 小径を基礎としてして防ぎょ線を設定すれば有効な阻止線になると判断、作業を開始し、その目的の防ぎょ線の設定を完了し、引き続いて燃え下がり部分に対する鎮圧しようとしたところ。
 突然、気象の変化により、東寄りの風が南寄りの猛烈な局地風となり南側火線より北側の山下草生地にに飛火と思われる火炎が上昇した。この状況を監視していた監視員より無線により避難を命じたが、飛火はさらに拡大、火勢は相乗するように稜線に向かって幅300メートル傾斜角度30度~50度の斜面を急上昇、隊員の退路を包むかのように上昇し、山頂まで約600メートルを上がり来た。

4月8日(水)【大阪地下鉄工事現場都市ガス爆発火災】

〔昭和45年4月8日、午後5時47分、大阪市大淀区(現北区)〕国分寺町の地下鉄堺筋線・天神橋筋六丁目(通称=天六)駅工事現場〕
〔被害状況〕死者78人、負傷411人、火災罹災31棟、焼損面積1,707平方メートル、爆風棟による一部損壊65棟、道路は、長さ150m、幅10m、深さ10mにわたって大きく陥没。
〔発生の概要〕地下鉄駅の工事現場で、埋設ガス管の継ぎ目部分がはずれによるガス守事故があり、調査中の大阪ガスの緊急事故処理車がエンジンを始動させたところ、車の下が燃え上がり、、しばらくして地下に充満した都市ガスが大爆発を起こした。工事現場をおおっていた重さ400kgの覆工板が広範囲に吹き飛んだほか、ガスの炎が噴出して火災となった。
 ガス漏れ事故は、午後5時15分頃とみられるが、火災の発生と爆発は5時47頃に起き、この間、周辺住民や集まった野次馬に対する適切な避難措置が取られていなかったことが、人的被害を大きくしたと、大きな問題となった。
 また、地下鉄工事に伴う埋設ガス管の取扱いやガス漏れ対策について、大きな教訓を残した。